1939年の第二次世界大戦の勃発はポーランド第二共和国に終焉をもたらしました。この大戦中、ナチスドイツとソビエト連邦は西ウクライナを占領しました。彼らは地域社会を破壊して地元の住民(特にエリート層)は追放や殺害されました。前述のとおり、ポーランド人とユダヤ人は西ウクライナにおいて豊
かな階級の大部分を構成していました。ソビエト連邦は少なくとも25万人ものポーランド人と10万人ものポーランド第二共和国におけるその他の民族(主に
ユダヤ人)をソビエト連邦の僻地へと追放しました。[91]
西ウクライナでは約2万人のポーランド人がシベリアへ追放されて何万ものポーランド人がナチスドイツによるポーランド占領地域であるポーランド総督府へと逃れました。[92]
ナチスドイツとソビエト連邦はポーランド人とウクライナ人にとっての敵でしたが、その中でウクライナ民族主義者はドイツ人をウクライナ独立国家樹立を支持するかもしれない味方であると見なしていたため、ナチスドイツへ協力する動機がありました。ナチスドイツ支配下で多くの若いウクライナ人がナチスの補助警察(Hilfspolizei)として西ウクライナにおけるユダヤ人問題の最終的解決に加担しました。1941年には既にソビエト連邦によって西ウクライナのエリート層が破壊されていたため、ポーランド、ウクライナの両政治勢力はもはや政治機関の形をなしておらず、むしろパルチザンのような軍事組織と化していました。[93]
ナチスドイツはウクライナをガリツィア地方を含むポーランド総督府(Generalgouvernement)とヴォルィーニ地方を含むウクライナ兵站部(Reichskommissariat Ukraine)という二つの行政単位に分割しました。よってドイツ人はウクライナ民族主義者たちが切望していた将来のウクライナ国家という意味でのウクライナ占領地域をひとつの行政単位にすることはしませんでした。最終的にはナチス当局はウクライナ民族主義者を投獄しました。[94]
ウクライナでは公式な軍隊をコントロールする国はありませんでした。戦時中にウクライナの政党が解した後、ガリツィア地方の西ウクライナ・ポーランド戦争の退役軍人たちによって組織されたウクライナ民族主義者組織(OUN)が西ウクライナにおける唯一の政治組織でした。1941年、ウクライナ民族主義者組織はOUNバンデラ派とOUNメリニク派の二つの派閥に分離しました。OUNメリニク派はより穏健で教養のある派閥で武装親衛隊ガリツィエンとしてナチスドイツを幇助していました。一方OUNバンデラ派はステパン・バンデラに
よって率いられた若い世代によって構成された派閥でナチスドイツとソビエト連邦への闘争とウクライナにおけるすべてのポーランド人を浄化することを目的としていました。1941年OUNバンデラ派は両派閥闘争の結果、指導的な民族主義者組織となりました。彼らはどうやら戦争はドイツとソビエトの両者が消耗
することで終結し、多くの構成員が西ウクライナ・ポーランド戦争を経験して1930年代にポーランド人によって投獄されていたため、ポーランドが最終的な敵となると考えていたようです。1943年OUNバンデラ派はその軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)を
組織してUPAはヴォルィーニ地方を支配下におきました。彼らはポーランド人の殺害と追放を始めました。ヴォルィーニ地方で大量虐殺を実行したウクライナ人のパルチザンはその前年にホロコーストに加担していたためにどのように大量殺戮を実行すればよいのかを知っていました。1939年から1943年にかけてヴォルィーニ地方のポーランド人は約40万人から20万人へと半減しました。約2千人のUPA構成員とウクライナ人の小作人によって行われた多くの攻撃は1943年の3月から4月、7月から8月、そして12月末に行われました。1944年7月にブロディで武装親衛隊ガリツィエンがソビエト赤軍によって破られると、故郷を去らなかった多くのOUNメリニク派の戦闘員はOUNバンデラ派とUPAへと合流しました。[95]
ポーランド人へのUPAによる攻撃に直面して、ポーランド国内軍(AK)の
ようなポーランド人によるパルチザンUPAに対して報復的な手段を行使しました。このウクライナ人への報復はロンドンのポーランド亡命政府が予期していたことではありませんでした。ポーランドパルチザンは重要なウクライナ人とウクライナ人の村へ放火しました。ポーランド国内軍はヴォルィーニ地方と東ガリツィア地方を支配化に置くための民族蜂起としてブルザ作戦を指揮しました。彼らはドイツ人とUPAに対して抵抗しソビエトの再占領後の赤軍に
よって解体されました。[96] ポーランドの国家記憶院(IPN)の先任者はルブリン地方でのポーランド国内軍によるウクライナ人の殺害に関する二つの深刻な調査を結論づけています。そのうち最も顕著なものはサフリン(Sachryn)というフルビエシュフ(Hrubieszów)近郊でポーランド国内軍が1945年3月9日から10日の夜に数百人もの市民を殺害したことです。[97]
ナ
チスドイツとソビエト連邦の両者がウクライナ民族主義者と地元民の運命に重要な影響を与えたのは明らかなことです。ヴォルィーニ地方で民族浄化に至ってし
まった最も致命的な要因はナチスドイツとソビエト連邦によって行われたエリート層の破壊です。教養ある人々と理解力ある指導者なしでは軍事組織を持つ
OUNバンデラ派のような政治組織は単にパルチザンや民兵組織にすぎません。さらに両世界大戦間時期におけるUPA構成員の経験がポーランド人に対して敵
対心を抱かせる動機になったという事実はヴォルィーニ大虐殺の引き金となりました。ユダヤ人問題の最終的解決への加担はまたその後の民族浄化実行を容易にすることに貢献しました。ナチスドイツとソビエト連邦の間での戦争中、ウクライナ人とポーランド人の両者のパルチザンは互いに殺し合うことになりました。
[91] Polonsky, A. (2004-2005a). p.231
[92] Snyder, T. (1999). p.93
[93] Snyder, T. (2003a). pp.156-159
[94] Snyder, T. (2003b). p.207
[95] Ibid, pp.162-170
[96] Snyder, T. (1999). pp.99-100
[97] Polonsky, A. (2004-2005b). p.287
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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