2012年2月18日

3.4 第二次世界大戦後の国境線変更

戦後のポーランド・ソビエト国境に関する決定的な事項がソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリスによって大戦中の1943年の暮れのテヘラン会談で議論されました。戦後の新しい国境線はかつて英国外相カーゾン卿が1920年7月にソビエト連邦へ提案した線に従いました。一度ボルシェビキによって拒否されたその線は「カーゾン線」と呼ばれています。カーゾン線の特徴は東ガリツィア地方がソビエト連邦領となっており、その線はラヴァ・ルスカの西とプシェミシルの東を通過してカルパチア山脈へと向かうものでした。[98] 当時、赤軍が東部戦線における対ドイツ戦で主要な役割を担っており、アメリカ合衆国と英国は自身を東部戦線で危険に晒したくなかったため、ソビエト連邦はこの議題で有利に立っていました。よってカーゾン線は最終的に1945年2月のヤルタ会談で合意に至りました。さらにポーランドが東部国境で領土を失う代わりにその西部のドイツ領を割譲されることになりました。このポーランドの回復領は産業的に発展した沿岸地域でした。この意志決定過程においてポーランド側の代表はこの議題に参加していませんでした。[99] 国境は大国である連合国によって決定してポーランドはその領土がおよそ240キロメートルほど西に移動することを強いられました。これにより現在のポーランド・ウクライナ国境が完成したのです。さらにウクライナ人が居住するブコビナ北部とトランスカルパチア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと割譲されました。結局ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は領土で四分の一で1100万人もの人口を手に入れることになりました。近代史上初めてすべての民族的なウクライナ人の領域がウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み込まれました。[100]
ポーランド人の大多数は大国の決定はカーゾン線に反対しました。それは新しいソビエト領に住んでいる4百万人ものポーランド人に影響するためでした。彼らはソビエト市民としてその場に住み続けるかポーランド回復領へ移住するのかを決断しなければなりませんでした。親ソビエト派のポーランド国民解放委員会(PKWN)とポーランド政府は人々にポーランド側へ移住することを強く奨励しました。多くのポーランド人が投獄、中央アジアやシベリアへの送還、差別、ソビエト支配化でのウクライナ化やリトアニア化を恐れて自発的に移住しました。1944年から1948年にかけて1,517,983人ものかつてのポーランド市民が公式に新しいポーランドへと移住しました。[101]戦後、1945年8月のポツダム合意に基づいたドイツ人の追放は大国とポーランド政府によって 実行されました。[102]この移住計画は1650万人に影響しました。1946年2月14日のポーランドと英国の統合本国送還執行部の代表による二国間本国送還合意の結果、ポーランドにおけるオーデル・ナイセ線の東側のドイツ人の数は5,057,000人にもおよびました。[103] 西側諸国は民族に基づいた再定住は当時の受容される道徳的規範とは矛盾しないと考えました。彼らは強制的な移住は国内的、国際的な紛争を取り除くことができるだろうと期待しました。[104]

[98] Davies, N. (1981). p.504
[99] Davies, N. (1984). pp.75-81
[100] Yekelchyk, S. (2007). pp.147, 151
[101] Kochanowski, J. (2001). pp.137-140
[102] Jankowiak, S. (2001). pp.87-88
[103] Davies, N. (1981). p.563
[104] Kersten, K. (2001). p.77

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...