トルコ語系の言語を話すムスリムはバトゥ・ハンのモンゴル軍隊と共に13世紀にクリミア半島にやってきました。彼らはタタール人と呼ばれてクリミア半島を5世紀にわたって支配しました。[130]クリミア・ハンは15世紀に設立され、チンギス・ハンの末裔を名乗りました。しかし彼らはクリミア半島に住んでいた土着のヨーロッパ系の民族集団 に同化しました。クリミア・ハンはイスラム法、伝統的タタール法、オスマン法の組み合わせに基づいた法体系に従い、16世紀から17世紀にかけてオスマン帝国の影響下でのクリミア半島で重要な国家となりました。1793年、クリミア半島はエカチェリーナ二世のロシア帝国に併合されました。[131] この段階でクリミアの勢力圏ははオスマン・トルコからロシアの影響下へと変遷しました。
1854年、クリミアはクリミア戦争の戦場となりました。トルコとその同盟国である英国とフランスはクリミア半島へ侵攻しセヴァストポリを包囲しました。最終的にロシアの艦隊はセヴァストポリの港を明け渡すことを余儀なくされてセヴァストポリ港を失いました。しかしセヴァストポリはロシア帝国を戦争での即時的な敗北から守った唯一の要因となりました。よってこのセヴァストポリという町はロシア人の間で英雄的な地位を獲得してその物語はセヴァストポリ神話となりました。[132] ロシア支配の重要な影響のひとつとしてクリミア半島における民族構成の変化があげられます。数多くのタタール人が続々とクリミア半島を離れた一方でロシア人とウクライナ人がクリミア半島に入植しました。トルコはタタール人にとっての主要な移住先となりました。黒海艦隊の建設はロシア帝国領からの入植に拍車をかけました。ウクライナ革命の間クリミアは自治的な地位を短命に終わったヘトマン政権より与えられました。タタール人の民族組織はクリミアの独立運動を展開しました。第一回クリルタイという部族の指導者による議会が1917年12月にバクチサライで開催された一方でボルシェビキはクリミア・ソビエトを樹立しました。1919年よりクリミア半島は徐々にボルシェビキの支配下になっていきました。1921年10月18日にクリミア・自治ソビエト社会主義共和国(ASSR)はロシア内の一自治共和国とセヴァストポリとイェヴパトリアを直轄地としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へと併合されました。[133] ロシア革命後、タタール人、ウクライナ人、白軍、赤軍がそれぞれの国家を樹立しようとしていました。独立国家樹立のためウクライナ人とタタール人は1918年に反ボルシェビキでの闘争のためにドイツと共闘しました。[134]
[130] Reid, A. (1997). p.175
[131] Uehling, G. L. (2002). The Crimean Tatars.
[132] Plokhy, S. (2000). p.374.
[133] Kuzio, T. (2007). pp.99-102
[134] Sasse, G. (2007). p.86
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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