国境線変更の結果ポーランド人とドイツ人だけではなくポーランドに住んでいたウクライナ人も強制的な移住を強いられました。ソビエト連邦崩壊まで独立国家を持たなかったウクライナ人はより不利な立場に置かれました。追放はソビエト連邦が戦後強い影響を及ぼしていたポーランドの共産主義政府によって計画、実行されました。.
1944年ポーランド国民解放委員会とソビエト構成共和国との間における再定住の合意に基づいて、ウクライナ人のポーランド領からの再定住が開始しました。その再定住は初期段階においては自発的に行われました。例えばポーランドとチェコスロバキア国境におけるレムコもしくはルシンと呼ばれる主要な少数民族は、ロシアに対して友好的で経済的に貧しい状況であっことが彼らをウクライナ東部へ再定住させることになりました。共産主義プロパガンダは彼らに訴えましたが、東部の現実は貧窮しており、彼らを受け入れるソビエト当局は十分準備ができていませんでした。1945年にポーランド政府がウクライナ人に新しいポーランドの領土から退去することを強制し始めた時、再定住は追放になりました。ウクライナ人は追放に反対し、ウクライナ蜂起軍(UPA)は抵抗運動において主要な役割を果たしました。ポーランド政府とUPAの暴力を伴った対立は1945年には内戦の様相を帯びてきました。[105] 当時ウクライナ人の追放はポーランド政府だけではなく大国特にソビエト当局によって承認されていました。[106]ポーランド政府がUPAと戦っていた一方でウクライナ人はウクライナ東部へと送還されていました。この送還がUPAの抵抗運動を下火へと追いやりました。結局1946年8月にポーランド政府はウクライナ人の再定住が完了したと宣言しました。1946年8月1日までに追放されたウクライナ人の数は482,500人にのぼりました。[107]しかし当時すべてのウクライナ人がポーランドから取り除かれたわけではありませんでした。
スペイン内戦の英雄であったカロル・スヴィェルチェフスキ将軍が1947年3月28日のUPAによる攻撃によって殺害された後、UPAを滅亡させるための軍事作戦がポーランド政府によって許可されました。その軍事作戦はヴィスワ作戦と呼ばれてUPAの完全なる撲滅とポーランド領内のウクライナ人を西部の回復領へ追放することを目的としていました。ヴィスワ作戦はソビエト連邦とチェコスロバキアによって援助されていました。1947年4月28日から7月31日にかけて14万人のウクライナ人が西部回復領へと再定住させられたといわれています。彼らはポーランド国境から100キロメートル以内もしくは海岸から50キロメートル以内に住むことは禁止されました。ひとつの場所にはたった2,3家族だけが定住することができました。[108] さらに彼らは故郷に帰ることは許されず、移動が厳格に制限されていました。[109]
戦後のウクライナ人の追放はポーランドにおけるウクライナ人の除去が熟慮して計画・組織されたことを表しています。最初にポーランド政府は武力でウクライナ人をウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと追放しました。そしてウクライナ人の数がある水準へと低下するとポーランド政府は残ったウクライナ人をポーランド西部で同化することを強制しました。その時追放がポーランドで広く実行されて、ウクライナが独立国家でないことによってUPAが非合法組織とみなされていた事実はポーランド政府がヴィスワ作戦を実行に移すことを容易にしました。ポーランド人はウクライナ人よりも有利な状況にあったのです。これによって民族的に純度の高いポーランドが歴史上初めて生まれたのです。民族浄化としての追放における顕著な特徴はポーランド政府が戦後のどさくさに紛れて追放の主要な役割を果たしたことです。追放は国家によって後援された民族浄化だったのです。ソビエト崩壊後、民主的なポーランド政府はヴィスワ作戦を非人道的な行いとして非難していますが、ヴィスワ作戦は今日においてポーランド人とウクライナ人の関係に影を落としています。[110]
[105] Subtelny, O. (2001). pp.157-160
[106] Jasiak, M. (2001). p.175
[107] Ibid. (2001). p.181
[108] Subtelny, O. (2001). pp.166-168
[109] Kisielowska-Lipman, M. (2002). p.139
[110] Jasiak, M. (2001). p.190
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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