最初のウクライナの政府形態は1917年三月に歴史家フルシェーウシクィイによるウクライナ中央ラーダとして形成されました。そのときヴィニシェンコによる社会民主主義者はラーダで影響力が強く、彼はウクライナの内閣大臣として総書記局を率いました。当初ラーダはウクライナの独立を要求せず、領土的な自治を要求しただけでした。彼らは将来的に民主的な連邦国家になるであろう新しいロシア国家を形成することを表明しました。しかしボルシェビキの対応を目の当たりしてラーダは1917年10月10日における総書記局の宣言によってロシアからの脱退を示唆しました。[16] 11月7日にボルシェビキがロシア帝国の首都ペトログラードを支配下に置くと、ラーダはその時代ロシア全土にはびこっていた混乱と無政府状態からウクライナを救うために重要な決断をしなければなりませんでした。1917年11月20日、ラーダは第三ウニヴェルサールを発行し、ロシアからの脱退を伴わない状態でのウクライナ人民共和国を宣言しました。ウニヴェルサールはキエフ、ポジーリャ、ヴォルィーニ、チェルニーヒウ、ポルタヴァ、ハルキウ、エカテリノスラーフ、ヘルソン、タウリダを含むウクライナ人民共和国の領土を提案しました。クルスク、ホルム、ヴォロネジなどのその他の地方は人民の要望によって組織されることになりました。[17] 12月に三国協商のフランスと英国はキエフへの公式代表任命しました。それは彼らが事実上ウクライナ人民共和国を認めたこととみなされました。[18]
独立宣言にもかかわらず、ウクライナ人民共和国は1918年2月のボルシェビキの侵攻のためキエフから避難をしなければなりませんでした。第一次世界大戦中の1918年2月8日、ウクライナ人民共和国はドイツやオーストリアなどの中央同盟国と平和条約を締結することに同意しました。ブレスト・リトフスク条約は第三ウニヴェルサールで宣言されたウクライナの領土におけるウクライナ人民共和国の主権を認めました。しかし最も重要なこの条約の部分は両陣営の利益が単に一致したことでした。条約の秘密条項では中央同盟国はウクライナ人民共和国に軍事的援助を行うかわりに兵糧を獲得するということが取り決められていました。よってこの条約は「パンの条約」と表現されました。[19]
最終的に1918年1月22日に第四ウニヴェルサールがウクライナ人民共和国のロシアからの完全なる独立を宣言しました。それはウクライナが過去数世紀の中で初めてロシアから政治的に独立した瞬間でありました。ウクライナの国家樹立への闘争はロシア帝国崩壊後まもない1917年から1918年にかけて自治から独立へと変遷しました。このロシアでの混乱を回避するために独立ではなく当初は自治の要求であったことは特筆すべき点です。これがウクライナが独立国家樹立を試みた出発点だったのです。
[16] Borys, J. (1980). pp.94-110
[17] Ibid. p.113
[18] Ibid. p.117
[19] Nahayewsky, I. (1966). p.80
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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