いったん中央同盟国はラーダがその領土を統治する能力を有さないことが認識すると、ドイツはラーダを取り除く計画を立て始めました。ドイツ
はロシアで教育を受けロシア帝国陸軍に仕えた18世紀のウクライナヘトマンの子孫であるパブロ・スコロパードシクィイ将軍を事態を打開するための会議へ招聘しました。ドイツはスコロパードシクィイにウクライナにヘトマン国家を樹立することを申し出て彼はそれを承諾しました。ドイツはウクライナでの体制変換をウクライナ国内の問題として処理することを望みました。1918年4月28日、ウクライナ農民党と土地所有者党の議会が開催されてスコロパードシクィイ
を「すべてのウクライナにおけるヘトマン」として選出しました。ヘトマンはラーダを追放しましたが、ラーダのメンバーをウクライナ国家を再建設することを要請しました。[20]
ヘトマンはドイツだけではなく、上流階級における国家主権の考えをもっていた人々とラーダを率いたウクライナ・ナ
ショナリズムから一線を画していた人々からも支持を集めました。それらの人々はウクライナ国家の設立に乗り気で参加をしました。その多くはかつての将校や官僚でした。ヘトマンが直面した問題はヘトマン政府がスコロパードシクィイのようなロシア語を話す一部のエリートたちによって構成されていたことです。社会主義者は全くヘトマン政府には参画せず、小作人はかつての地主とドイツ人によって搾取されていました。[21]
ヘトマン政権下では外交関係、教育、文化の分野において近代的なウクライナの基礎が形成されました。ヘトマンの官僚政治によって教授言語がウクライナ語による150もの高校と2つの大学が設立され、その中には3つの現存する大学、ウクライナ語、文学、歴史の学科がそれぞれ設立されました。ヘトマンはウクライナ科学アカデミー、国立図書館、国立公文書館、ウクライナ芸術アカデミー、ウクライナ国立舞台会社などその多くが今日現存する文化機関を数多く設立しました。外交関係ではヘトマ
ン政権を支えた中央同盟国だけではなくその近隣諸国といくつかの中立国との外交関係を設立しました。[22]
ヘトマンは「疑いの余地無く西ヨーロッパの多くの人々にウクライナ人の存在を気づかせる要因になりました。」[23]
ヘトマンはエリート以外の小作人である多くの人民から支持を得ることが無かったにもかかわらず、ドイツの援助のおかげで政治機構としてはうまく機能しました。しかし中央同盟
国の敗戦後は後ろ盾を失ったヘトマンが生き残る余地はありませんでした。短命に終わったヘトマンのウクライナはある程度発展しましたが、ウクライナの小作人とエリート層の間のギャップは大きなものでした。
[20] Ibid. pp.80-91
[21] Ibid. pp.94-97
[22] Yekelchyk, S. (2007). p.75
[23] Reshetar, J. (1952). pp.206-207
2012年2月9日
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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