自治ソビエト社会主義共和国の地位は最も重要な政治集団から支持を取り付けるための民族政策上の一手段でした。ソビエト連邦では多くの自治単位が民族的、文化的、社会・経済的に非常に雑多な状態で構成されていました。自治ソビエト社会主義共和国では独自の憲法を定めることが許されていましたが、その憲法はソビエト連邦の憲法の内容を遵守しなければなりませんでした。自治単位は行政および文化的な政策においてほとんど権限を有しませんでした。クリミアの地位はソビエト時代に幾度も変更されました。1945年にクリミアの地位はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治ソビエト社会主義共和国から地方行政区分の州へ、1954年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の州、1991年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の自治ソビエト社会主義共和国へと変更されました。1921年11月10日に採択されたクリミア憲法の下では、ロシア語とタタール語はふたつの国語と定義され、クリミア・タタール人は最も重要な民族集団であるとみなされました。ソビエト連邦の民族政策が土着化に結果として比較的寛容であった1920年代、クリミア・タタール人はクリミアの政治機構における主要な地位を享受しました。しかし1930年代のスターリンの台頭と共に粛正の時代と強制的な集団農場化は3万5千人から4万人ものタタール人のシベリアへの強制移住を引き起こしました。その一方で大量のスラブ人のクリミアへの植民がソビエト連邦の政策によって行われました。タタール人は飢饉、政治的弾圧、ロシア化をこの時代に経験しました。[135] タタール語はキリル文字での表記へと変更されました。1944年のクリミア・タタール人の追放は1945年6月30日のクリミアの自治ソビエト社会主義共和国からロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内のひとつの州への降格という結果となりました。クリミア半島は第二次世界大戦後の大量のロシア人の入植と共に継続的なロシア化を経験しました。その多くの入植者たちはソビエト連邦の軍事関係者でした。[136]1954年にクリミアの統治権はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管されました。 この出来事はしばしばウクライナ・ソビエト社会主義共和国への「フルシチョフの贈り物」やウクライナコサックをロシアへと統合した1654年の「ペレヤスラフ条約300周年記念」と呼ばれています。しかしなぜクリミアの行政権が移管されたのかという決定的な理由は確かではありません。[137]この統治権移管の現在のクリミア半島の地位とウクライナへの影響は重要です。クリミア半島の統治権移管をもって今日のウクライナの国境線形成が完成しました。そしてソビエト連邦崩壊後にロシアとウクライナにおける深刻な問題となりました。統治権が移管された当時は誰もソビエト連邦が崩壊することを予想はできなかったでしょう。 クリミア半島の地位に関する議論はそれ自体新しいものではなく、ロシア革命後とソビエト初期における問題に当時すでになっていたのです。[138]
クリミアの歴史はクリミアの複雑な状況の起源を教えてくれます。第一にクリミアはロシア化されて土着の住民であるタタール人は18世紀のロシア帝国のクリミア半島併合以来困難な状況に置かれてきました。第二にセヴァストポリはクリミア戦争以来ロシア人にとって特別なイメージを与えていることです。第三にクリミアはロシア革命時にはすでに多様な民族構成であったことです。各民族集団がそれぞれの独立国家を樹立しようとしていましたが、クリミアの自治という地位は初期のソビエト政権よって確立されたのです。既成事実としてクリミアに自治権が存在したことはソビエト連邦崩壊後に再び自治権を付与することを受け入れる土壌ができていたかもしれません。この既成事実はコーネルの指摘する第二の点を緩和することができるでしょう。最終的にクリミアは1954年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ移管されて歴史上初めてウクライナの一部となりました。ウクライナ人はそれまでにもクリミア半島に住んではいましたが、近代史を見る限りではクリミアの歴史的由来は深くロシアにあるのです。このロシア的由来は1990年代の政治的流動化の決定的な起源となったのです。
[135] Ibid. pp.90-95
[136] Kuzio, T. (2007). pp.102-103
[137] Sasse, G. (2007). pp.95-101
[138] Sasse, G. (2002). p.79
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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