モスクワでの失敗したクーデター直後の1991年9月4日、クリミア最高会議はクリミアの国家主権を「主権、団結、不可分のクリミア・自治ソビエト社会主義共和国」として宣言しました。[150] この宣言はクリミアを「クリミア共和国」として宣言して政治情勢の流動化の出発点となりました。
1991年12月1日、ウクライナは独立のための国民投票と大統領選挙を実施しました。ウクライナ全体では90%の有権者が独立支持であったのに対して54.2%のクリミアにおける有権者が独立を支持しました。1992年中央政府のキエフはクリミアに対する明確な政策を持っておらず、このことがウクライナ独立直後のクリミア情勢の流動化をもたらしました。1992年5月6日のクリミア最初の憲法は分離主義の立場をとりこの憲法はウクライナ政府によって直ちに拒否されました。クリミアの首都シンフェロポリは独立のための国民投票を行うとキエフを脅しました。しかしキエフは交渉とクリミア最高会議への憲法修正の余地を与えました。キエフとシンフェロポリの両者は対話を続ける用意がありました。5月23日、シンフェロポリは独立の宣言を無効化して国民投票を延期しました。最終的には1992年5月の憲法は「クリミア共和国」からウクライナにおける「州」へと修正されました。この憲法はクリミアの地位と領域的用語における権力を定義しました。この自治権取得への運動の最初の段階ではクリミア・タタール人は含まれていませんでしたが、彼らは旧ソビエト連邦の中でも最もよく組織されていた民族集団でした。[151]
1993年9月、クリミア最高会議はクリミアにおける最高位の役職としての大統領の役職を設置してそれはウクライナ議会によって承認されました。翌年、親ロシア派の民族主義者ユーリ・メシュコフがクリミア大統領として選出されました。彼の大統領への投票はクリミアにおける曖昧に定義された「ロシア的見解」への賛成票として理解されています。彼の分離主義政策はキエフだけではなく地元の政府内とも係争を引き起こしました。彼はロシアとの合併への見通しをクリミアの経済発展への解決策として求め、ロシア人の経済学者をクリミア首相として任命しました。しかしこのことは経済改革におけるクリミア最高会議の憤慨を引き起こしました。[152] 多くのクリミアの人々は彼の極端な民族主義はキエフとの関係悪化をもたらしてそれはクリミアの経済状況悪化という結果になるとみなしました。この知覚は彼の人気低下につながりました。[153] 彼はウクライナ議会選挙のボイコットを呼びかけましたが、このボイコットは彼自身のロシアブロック党が代表をキエフのウクライナ議会へ送る機会を逃すことになりキエフでの彼の影響力が限定されたものになりました。これらの間違いは中央政府のキエフに再びクリミアへの影響力を拡大させることを助けました。さらに新たに選出されたウクライナ大統領クチマはクリミアの自治権とロシアとの強力な結びつきを支持しました。このことはメシュコフ政権下での混乱からの安堵感をクリミアに与えました。[154]
この点においてクリミアの政治情勢の流動化は民族の分裂に基づいたものではなく歴史的・経済的理由によるものだったのです。キエフの中央政府とクリミアの地方政府の対立はロシア人とウクライナ人の民族的対立よりも重要だったのです。このことはクリミアの政治情勢の流動化における顕著な特徴でした。
[150] Solchanyk, R. (2001). p.188
[151] Sasse, G. (2007). pp.140-149
[152] Ibid, pp.156-160, 168-169
[153] Kuzio, T. (2007). p.161
[154] Sasse, G. (2007). pp.164, 171
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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