2012年2月13日

2.6 第二章まとめ: ウクライナ・ソビエト関係史

ウクライナ革命中の短命に終わった3つの政府はウクライナという国家を作り上げることに失敗しましたが、ウクライナにおける民族運動の一連の出来事はボルシェビキにウクライナ民族主義者への譲歩が必要であること、1920年代に民族政策を真剣に検討しなければならないことを確信させました。それはロシアから分離されたウクライナ・ソビエト社会主義共和国の設立という結果になりました。ウクライナの国家建設はソビエト体制の中で始まり、そのナショナリズムの台頭はウクライナ革命に直面してソビエト体制の中でも無視できない状態にありました。
内戦後にボルシェビキはウクライナにおける支配を確立しました。なぜウクライナがボルシェビキによって独立した政府が設立された理由はウクライナでの民族運動を弱めることとウクライナ人民共和国を滅亡させるためでした。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立に際してクレムリンはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国との関係を定義しなければなりませんでした。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立はウクライナ革命と内戦の産物です。ソビエト連邦設立と1924年の憲法設置に代表されるソビエト政治の制度化は1920年代にソビエト制度内でのウクライナの指導者がウクライナ・ソビエト社会主義共和国の大権機能と民族自決の原則に基づいた連邦脱退の権限維持を防衛したことを説明します。この成果はレーニンの支持のおかげでウクライナの1990年代のソビエト体制からの平和的独立で重要な役割を果たすことに貢献しました。もしウクライナ・ソビエト社会主義共和国がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に吸収されていたら、ソビエト連邦崩壊後に大ロシア優越主義によって流血無く独立を果たすことは困難であったでしょう。.
ウクライナ化はウクライナでの出来事をモスクワが容易に支配できるようにするためと理解できます。しかしウクライナ化の結果は文化と政治の分野において深い国民意識の再生と発展としてのウクライナ版啓蒙活動をもたらしました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立はウクライナの物理的国境を形成した一方で、大衆教育、識字率向上施策、言語の標準化の導入による1920年代のウクライナ化政策はウクライナ・ソビエト社会主義共和国における人民の民族意識としての心理的境界を育み、補強しました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の何百万もの人々が自身をウクライナ人として気づき始めました。よってソビエト国家に推し進められた啓蒙運動としてのウクライナ化は近代的なウクライナの基礎を築き上げることに貢献しました。
ソビエト民族政策の解決策としてのウクライナ化は強い多数派であるロシアと貧しい他の構成共和国との間でソビエト初期における調和と保つために行われた妥協として見ることできます。それにもかかわらずこのソビエト民族政策は長続きせず、1920年代一貫してウクライナ指導者と対立していたスターリンの台頭と共に、1930年代の大飢饉と大粛正の時代にその立ち位置を大ロシア優越主義へと変化させていき、ウクライナ化は終焉を迎えてそれ以来ロシアの優越はソビエト全体を支配しました。1920年代のウクライナ化の時代だけがウクライナ人にウクライナ版の啓蒙運動としてウクライナの文化の発展を許しました。1920年代とは対照的に、ウクライナ化の後退はウクライナにおける脱ウクライナ化とも見ることができるでしょう。
ウクライナとロシアの国境はウクライナ革命と内戦の産物です。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国成立とその民族政策はウクライナという国家おいて重要な影響を及ぼしています。近代国家としてのウクライナの概念がナショナリズム台頭としてのウクライナ革命に見られる一方、その発展は1920年代にソビエト体制の中で行われたのです。1930年以降はスターリン台頭と共にソビエト連邦との関係は、かつて帝政時代にウクライナ人が経験したような従属的なものになりましたが両国には国境が存在していたのです。これがソビエト連邦での現実といえるでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...