2012年2月20日

3.6 歴史の加速

ベルリンの壁崩壊3ヶ月ほど前の1989年8月、中央・東ヨーロッパで共産主義支配の開始以来初めての非共産主義政権がポーランドで独立自主管理労働組合連帯(NSZZ)の運動の結果、樹立されました。このことはヨーロッパの歴史を加速させる出発点となりました。20世紀末のソビエト連邦崩壊は旧ソビエト諸国とそのヨーロッパの衛星国に劇的変化をもたらしました。民主化はスターリンによって画定された国境に関する議論や疑問と国家間の関係を再考する議論を開始させました。ポーランド・ウクライナ関係も例外ではありませんでした。民主化されたポーランドは1990年代の変遷の時代において重要な役割を担いました。
連帯の指導者によって構成されたポーランドの非共産主義政権は「クルチュラ」という影響力ある亡命ポーランド人の雑誌の意を受けた確固とした基本戦略がありました。ポーランドは戦前の第二共和国時代の国境を主張すべきでないことポーランドの東に位置するソビエト構成共和国の独立を支持すべきであるという「クルチュラ」の思想に従って、ポーランドは1990年代にその新しい国家の存在を保証するために東の隣人(リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ)に対して最高の敬意を払いました。[111] ポーランド史において、伝統主義者という立場に対するジェズィ・ジェドロィツによって練られたクルチュラの思想は修正主義者として分類されています。[112]
国境に関して、ポーランドとドイツが第二次世界大戦後にそれぞれの東の領土を失うことになった西へのポーランド領土の移動は未解決の問題でした。ドイツ再統一の予兆を目前にした民主的なポーランド政府はドイツが戦後に失われた領土を要求してくることを恐れてドイツ統一を支持しませんでした。しかし結局ポーランドは9箇条の保証として米国から現在の国境線を維持するという保証を取り付けて、最終的にはオーデル・ナイセ線をポーランド・ドイツ国境とすることを確認するポーランド・ドイツ国境条約を1990年11月14日に締結しました。ポーランド人がドイツ人の領土に関する要求を恐れたように、ウクライナ人もまたソビエト連邦崩壊後にポーランド人が東ガリツィアの支配権を主張してくることを恐れました。1990年10月にポーランドは西ウクライナにおける領土の要求を控えることをポーランド・ドイツ国境条約締結以前にウクライナに対して保証しました。[113]
この過程において、ベルリンの壁崩壊後にドイツとポーランドの両者がそれぞれの失われた領土に関する要求を控えたという首尾一貫した枠組みが作用していることがわかります。戦前の第二共和国が採用し、1990年代にはユーゴスラビアのように他の諸国が利用した民族主義的なアプローチからポーランドは距離を置いたのです。
1990年10月13日キエフでポーランドは「ポーランド・ウクライナ関係の発展における基礎と基本的方向に関する宣言」という国家間の宣言をウクライナ・ソビエト社会主義共和国と締結しました。その宣言は不可侵の保証、現在の国境線の維持、両者における少数民族の文化的権利を取り決めました。[114] 米国の不賛成にもかかわらず、1991年12月の国民投票によって決定したウクライナの独立をポーランドは公式承認した最初の国となりました。ウクライナ独立に際して連帯の活動家とウクライナの民族活動を行っていたルクとの間にはあまり公式の交流はありませんでしたが、ポーランドの融和的なアプローチはルクに世論を勝ち取る広い訴えと共に中道の運動を保持させることとなり、結局それはソビエト支配の終焉という結果になりました。ポーランドの東方政策は平和的な独立の達成を導いたウクライナの市民概念を間接的に下支えしたのです。[115]

[111] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.36, Snyder, T. (2005). p.251
[112] Copsey, N. (2008). p.540
[113] Snyder, T. (2003a). pp.235-237, 245
[114] Burant, S. R. (1993). p.409
[115] Snyder, T. (2003a). pp.242-243

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...