ペトログラードでの十月革命の直後ボルシェビキはキエフで武力によって権力を掌握しようと試みました。ボルシェビキの状況は有利であったにもかかわらず、キエフの政府はラーダに権力を委譲しました。ボルシェビキはラーダで権力を掌握する必要があると悟りました。1917年12月17日、ボルシェビキがソビエト政府を樹立させるため、労働者・兵士・農民の代表によるソビエト評議会がキエフで開催されました。それにもかかわらず代表団はラーダを支持したため、ボルシェビキは彼らがソビエト政府を樹立させることができたハリキフへ逃れなければなりませんでした。このことは(北から見たドニプロ川の)右岸と左岸の一部の地域はボルシェビキを支持していなかったことを彼らに実感させるのものでありました。[29] この段階で事実上の政府としてキエフを支配下においていたラーダはボルシェビキよりも影響力がありました。よってウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都は1934年までハリキフにありました。
ウクライナのソビエト政府はハリキフにてソビエト評議会によって設立され、ウクライナ中央委員会と人民書記局が1917年11月に設置されました。ペトログラードの人民委員会議はハリキフの人民書記局を認めましたが、軍事と高度の政治的事項に関しては権限を認めませんでした。ウクライナではボルシェビキがあまり支持されていなかったため、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の政府は不安定で幾度も解体されたり再結成されたりしました。[30] ウクライナ人民共和国とは別に締結されたブレスト・リトフスク条約はボルシェビキがウクライナ人民共和国の主権を法規上認めることに同意したとしています。しかしレーニンは中央同盟国の敗北を待っていただけで、中央同盟国の敗北後にはボルシェビキによってウクライナ臨時政府が11月28日に設立されています。赤軍がウクライナ領土を1919年1月に掌握したとき、ソビエト社会主義共和国の政治形態は再度形成されました。[31]
国際法の見地から最初の独立ウクライナのソビエト政府を見てみると、それは1918年3月にエカテリノスラーフでの第二回ウクライナ・ソビエト評議会でロシア連邦の一連邦として宣言されています。この段階ではウクライナ共和国とロシア共和国の関係に関する具体的な形式は定まっていませんでした。中央同盟国の敗北後に初めてウクライナのソビエト政府は世界の他の国々と外交関係を樹立する用意がありました。第三回ソビエト評議会はウクライナ・ソビエト社会主義共和国の憲法を制定し、ウクライナはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に含まれることが想定されていました。しかしこの独立はボルシェビキの政策によって制限されていました。ウクライナのボルシェビキ勢力は軍事力と党の機能をロシアのボルシェビキに依存していたため、彼らはロシアのボルシェビキの指導を遵守しなければなりませんでした。1919年初頭の戦時中、ウクライナの最初の連邦機能は赤軍との軍事提携が実施され、その後ロシアとの経済提携が1919年に実施されました。[32] 当初ボルシェビキの指導者たちはウクライナが独立国家の体裁をおびることとウクライナがロシアによって吸収されることは重大な議論の対象ではないとみなしていました。それにもかからわず、1919年8月の白軍のモスクワへの進軍はボルシェビキ指導者にウクライナ・ソビエト社会主義共和国は存在すべきかという問いであるウクライナ問題の政策変更を余儀なくさせました。ボルシェビキの政治局は1920年1月17日と18日の会合でウクライナ問題を協議すると発表しました。そして国家経済の管制高地での中央集権化された管理体制を維持し、公式なウクライナ・ソビエト社会主義共和国の独立に批准すると結論づけました。[33] ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国家間の関係を形成することはレーニン、外務人民委員のチチェーリン、ウクライナ側代表のラコフスキによって署名された1920年12月28日の「労働者と農民の条約」によって決定されました。条約はウクライナとロシアの独立と主権という表現を用いていたにもかかわらず、ウクライナ政府におけるいくらかの部門におけるウクライナのロシアへの従属を強調していました。[34]
おもしろいことにウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に従属していたのですが、ウクライナは1920年代初頭に複数の国々と外交関係を樹立していました。ソビエトウクライナ独立の承認は合意書と条約によって観測されています。すでに述べたとおり、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とポーランドは1921年3月18日のリガ条約でウクライナ・ソビエト社会主義共和国を承認しました。オーストリア、チェコスロバキア、エストニア、ラトビア、リトアニア、トルコはウクライナ・ソビエト社会主義共和国をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とは別の主権国家として承認し、さらにフランス、ドイツ、ハンガリーはウクライナ・ソビエト社会主義共和国といくつかの合意書を締結しています。[35]
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の設立は単にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の制作物にすぎなかったのです。ウクライナはロシアからは切り離されて自身の外交関係を持つようになりました。ロシアの共産主義者の決定はウクライナでのソビエト政府の樹立を最優先としていたため内戦中ではそれがウクライナ・ソビエト社会主義共和国であろうかロシア・ソビエト連邦社会主義共和国であろうかは問題ではなかったようです。ウクライナを支配下に置くための闘争の結果、ボルシェビキがソビエトウクライナの樹立に成功し、ウクライナ問題への回答はロシアへの従属ではあるものの独立国家としてのウクライナ・ソビエト社会主義共和国の樹立でした。ロシアとの関係は1920年代にソビエト連邦成立と共に定義されなければなりませんが、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の樹立はソビエトの政治体制の中でロシアとウクライナの間に国境線が画定されたときであったのです。
[29] Borys, J. (1980). pp.180-183
[30] Ibid. pp.188-194
[31] Kulchytsky, S. (2003). pp.346-349
[32] Borys, J. (1980). pp.296-298
[33] Kulchytsky, S. (2003). pp.351-353
[34] Ibid. p.356
[35] Borys, J. (1980). pp.310-311
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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