ロシア帝国の崩壊は第一次世界大戦の真っ直中ボルシェビキ[15]の台頭が現在のウクライナ領土内に複数のソビエト共和国を設立したにもかかわらずウクライナに独立のチャンスを与えました。各々の勢力がウクライナ国家の建設を試み、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国がウクライナを支配下に置くことに成功し最終的には20世紀のソビエト計画に組み込まれました。闘争の結果、ロシアとウクライナの境界が近代史上初めて線引きされました。それ以来、ロシアとウクライナは別々の共和国として統治されることになりました。第二章はなぜ・どうしてソビエト・ウクライナはソビエト・ロシアから分離され、ナショナリズムが台頭する中でウクライナ国家を樹立しようとする試みはソビエトの民族政策にどのような影響を与えたのだろうかという問いを議論します。またソビエトの民族政策におけるウクライナとソビエト連邦の関係についても議論します。おもしろいことにソビエト連邦崩壊後の世界でも比較的新しい部類の独立国家ウクライナはその国旗、紋章、国歌を短命に終わったウクライナ人民共和国(UNR)の遺産として公式に採用しています。その一方で現在のウクライナはウクライナ・ソビエト社会主義共和国より政治機構を受け継いでいます。ロシア帝国崩壊後のこれらの両政治形態の形成過程と政策を調査することは意味のあることです。現在のウクライナ国家はロシア帝国崩壊後まもない時期に端を発するものでありましょう。
ソビエト連邦との関係に焦点を当てることを決めた以上、第二章はウクライナの政治機構の形成とロシアとウクライナの関係に大きな影響を与えたであろうロシア帝国崩壊後から1930年代に注目します。よって以下の論題を取り扱います。
第1節はロシア帝国崩壊後に達成されなかったウクライナ国家の建設を扱います。1920年代に発生した事象への議論を補強するため、どのようにウクライナ革命が発生したのかを調査します。第2節はウクライナ・ソビエト社会主義共和国の形成を調査し、内戦後どのように政治形態としてのウクライナ・ソビエト社会主義共和国がロシアから分離されたのかを、第3節ではウクライナ・ソビエト社会主義共和国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国との関係を説明するためにソビエトの政治形態の中での権力の分配のための闘争を議論します。第4節と第5節ではソビエト連邦の民族政策とそのウクライナへの影響を扱います。どのようにソビエト連邦の民族政策はウクライナの国家建設へ影響を与え、ウクライナとソビエト連邦との関係に影響を与えたのかを説明します。
[15]本論文では「ボルシェビキ」という用語は1922年12月30日のソビエト連邦設立以前のボルシェビキによるロシア共産党(RCP(B))を表現する場合に用い、その後はロシア共産党という名称を使用します。ロシア共産党は1898年にロシア社会民主労働党として設立され、1918年にはロシア共産と名称変更し、さらに1952年には再度ソビエト連邦共産党へと名称変更しました。Wieczynski, J. L. (Ed.). (1978). p.217, Raymond, B., & Duffy, P. (1998). p.71
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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