ウクライナでのソビエト政府成立における最終段階はソビエト社会主義共和国連邦の成立です。ソビエト連邦は構成国との条約締結とソビエト憲法の設置によって成立しました。1922年12月30日に締結されたソビエト社会主義共和国連邦設立に関する条約よって公式にソビエト共和国がソビエト連邦を成立させました。その条約は新しい連邦政府の主要な法的及び政治的概要と連邦国家と構成共和国との関係をそれぞれ定義しました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ベラルーシ、トランスカフカスと共に連邦国家へと合併を行った最初の4つの共和国のひとつでした。[36]最初のソビエト憲法は第十二回共産党大会が連邦制と中央集権化された連邦制の二つの考えを非現実的として採択しなかった後、1924年1月31日に施行されました。ソビエト憲法は最初の構成共和国は平等な権利を有すること、構成共和国が連邦国家から脱退することを認める民族自決の原則を認めるものでした。[37]
ソビエト憲法を念入りに作り上げることは連邦政府と構成共和国との権力構造に関する議論を引き起こしました。憲法制定のための闘争は中央集権主義者と地方分権主義者によって行われました。この闘争は中央集権主義者のロシア共産党指導者であるスターリンと地方分権主義者のウクライナ共産党指導者ラコフスキとスクリプニクに代表されます。
スターリンは「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国における連邦制度を支持する組織は中央集権主義の原則から後退して民族主義活動への妥協を強いるのものである」と主張しました。[38] そして彼は将来のソビエト共和国は自治共和国としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へと吸収されるべきという独自の決議草案をロシア共産党中央委員会へと提案しました。このスターリンによる概念は自治化(Autonomisation)と呼ばれています。スターリンは連邦政府と共和国の間の2段階構成に反対したのです。一方、ウクライナ共産党はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国との平等な地位を要求し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へ吸収されることに反対しスターリンの自治化に反対しました。両者の対立に直面して健康状態悪化のため影響力が衰えつつあったレーニンはスターリンの自治化に対する仲裁者の役割を果たしました。レーニンはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を含むすべての共和国が一つの連邦国家へと合併すべきであり、その連邦国家における共通中央委員会が組織されるべきであると提案しました。[39] 「レーニンの民族自決の原則への支持は曖昧な現象への評価ではなく、当時発生していた歴史的、社会的、政治的な現象への現実的な評価でありました。」[40]レーニンはウクライナにおける民族主義運動と人民の民族意識への当初の過小評価を完全に修正しました。[41] 結局、最終決議の形式はレーニンの介入によって二段階構成となりました。「1922年から1923年にかけてのソビエト連邦の成立は自治国家の領域における連邦というよりはむしろ独立国家の領土的な形成を設立したものでした。」[42] またスターリンは結局レーニンへ歩み寄ったのです。
ソビエト連邦の体裁とソビエト権力の分担に関する議論に直面したスクリプニクとラコフスキなどのウクライナ共産党の指導者たちはロシア人たちがウクライナの主権を認めるよう働きかけ、なんとかスターリンの自治化に対してウクライナ側の要求を守りぬきました。彼らは単にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の大権機能を代表したのではなく、すべての非ロシア人によって構成される共和国の主張を代表したのです。ウクライナ人の反対派が議論で存在感を示した重要性はウクライナ人がウクライナは独立した政治単位として扱われるようロシア人を納得させ、ウクライナがウクライナ化政策に代表される1920年代のソビエト民族政策に影響を与えたことです。さらに特筆すべきポイントとして民族自決の原則は単にウクライナの民族主義者だけで養われただけはなく、ソビエトの政治体制の中であるウクライナの共産主義者たちの間でも養われたことです。Szporluk はレーニンの判断としてのウクライナ・ソビエト社会主義共和国のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からの分離は1990年代のソビエト連邦崩壊が平和的に進んでいったことを助け、ソビエト崩壊がユーゴスラビアのレプリカとなることを防いだと述べています。[43]
ソビエト憲法で保証されていた民族自決の原則に基づく連邦からの脱退の実現性について、実際には構成共和国は脱退を考えることは想定されておらず、完全な俗説でした。さらにこの脱退権限がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国によって行使されることは全く想定されていませんでした。[44] よって1953年までソビエト連邦を支配したスターリンはこの脱退問題について「スコラ的で無用な問題」とコメントしています。[45]
[36] Ibid. p.327
[37] Aspaturian, V. V. (1950). p.27
[38] Guins, G. C. (1950). p.336
[39] Borys, J. (1980). pp.315-316
[40] Aspaturian, V. V. (1950). p.23
[41] Borys, J. (1980) p.252
[42] Martin, T. (2001). p.18
[43] Szporluk, R. (2006). pp.620-621
[44] Ibid. p.620
[45] Aspaturian, V. V. (1950). p.27
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目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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