2012年3月1日

4.4.2 欧州安全保障協力機構(OSCE)の役割

クリミアにおける政治情勢の流動化はロシアだけではなくその他の国際機関とも密接に関連していました。国際連合、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州評議会、欧州連合(EU)など少なくとも4つの国際機関がクリミアに関与していました。特にOSCE国家少数民族高等弁務官は憲法制定過程で重要な役割を果たしました。1994年2月、初代国家少数民族高等弁務官マックス・ファンデアストールはOSCEの原則に基づいた政治的解決を促進するためにウクライナ政府によって招聘され、憲法制定過程での重要な提言を行いました。彼の提案はクリミアとウクライナの両憲法に「ウクライナにおけるクリミア自治の地位」という条項を挿入することでした。クリミア憲法はウクライナ語を国語として、ロシア語とタタール語は公用語として採用されるべきと彼は提案しました。さらにクリミアは分離独立したクリミア国民の要求を取り下げるべきとも主張しました。これらの提案はキエフとシンフェロポリの両者によって受け入れられ、両者の妥協を引き出しました。[164]
国家少数民族高等弁務官は憲法制定プロセスへの介入だけはなく少数民族の地位改善、特にクリミア・タタール人の地位改善に貢献しました。1991年11月13日にウクライナ市民権法が施行された後、1万800人もの主にウズベキスタンからのクリミアへ帰還したクリミア・タタール人はウクライナの市民権を持っていませんでした。よって彼らは選挙で投票する権利がありませんでした。[165] ウクライナは二重国籍を認めないため帰還者は以前の国籍を放棄しなければなりませんでした。しかしウズベキスタンの場合を見てみると国籍を放棄する手続きは時間と費用がたくさんかかりました。国家少数民族高等弁務官の提言後、ウクライナ・ウズベキスタンの両政府はウクライナへの帰還者への国籍の移管を効率的に行えるようにする二重国籍防止に関する合意に調印しました。2万5千人ものタタール人がこの合意の恩恵を受けました。[166]
ロシア議会がクリミアに対する民族主義的な決議を採択したとき、イェリツィン政権はクリミアにおける政治情勢の流動化を支持しませんでした。さらにチェチェン戦争はロシアがクリミアから距離を置く要因となりました。これらのふたつの要因はクリミア情勢の流動化を下火にしました。ロシアがクリミアから距離を置いたことはコーネルの第三の指摘部分の土台を崩すことになります。核武装解除の条約、20年間のセヴァストポリ貸し出し条約、友好条約はロシアが核兵器と黒海艦隊を手に入れる代わりにクリミアとセヴァストポリにおけるウクライナの主権を認めることを表しています。これらの条約はロシア議会がさらなる要求を行うことを防ぐことになりました。OSCEの役割は憲法制定過程で重要でした。OSCEの介入はキエフとシンフェロポリの両者に妥協をもたらしました。ウクライナにおけるクリミアの自治というアイデアはOSCEによって提案され、それは交渉の決裂を防いだのです。

[164] Bowring, B. (2005). pp.83-84
[165] Shevel, O. (2001). Crimean Tatars and the Ukrainian state: the challenge of politics, the use of law, and the meaning of rhetoric.
[166] Bowring, B. (2002). p.66

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...