2012年3月15日

5.5 第五章まとめ: 欧州化とEU・ウクライナ関係

第五章で議論してきたとおり、ウクライナにとって欧州化の枠組みの中で自国の発展を続けることは避けて通ることができないのです。EU東方拡大の結果、EUとの新しい境界はウクライナにENPを通じたEUとの新しい関係を構築することを生じさせました。EU東方拡大とその結果としてのENPはウクライナの発展にとって重大な影響を与えているのです。
EUとウクライナの関係はENPの枠組みにおけるコンディショナリティーによって説明することができます。EUはコンディショナリティーを利用してその強大な影響力を近隣諸国へ行使してきました。コンディショナリティーの特性は強く豊かなEUと弱く貧窮したウクライナとの間に成り立つ力の非対称性を示しています。ウクライナのENP参加はウクライナがEUの規範をベストプラクティスとして認識していることを暗に示しています。よってたとえEUによる指示が内政不干渉の原則を侵害してウクライナにとって最良の国益とならないかもしれなくてもEU加盟国の発展水準へ追いつくために、ENP加盟国としてのウクライナはEUの規範を採択しなければならないことを意味します。EUの強大な影響力とEUコンディショナリティーを通じた規範的なEUの権力はEU・ウクライナ関係における顕著な特徴です。この意味においてEUの責任はとても重大なのでその政策は首尾一貫しているべきなのです。
ENPの成果としてのコンディショナリティーの有効性は限られたものです。欧州委員会の進捗報告書が指摘するように、ウクライナ政府内の権力の分離はアクションプランの実行に優先権を与えませんでした。EUコンディショナリティーは一国がEUの規範をベストプラクティスとしての認識している場合によく機能することを考慮すると、ウクライナ政権内の権力闘争がウクライナのアクションプラン履行を邪魔することになりました。さらに世界統治能力指標はアクションプランが完全に履行されず、2004年から2009年にかけてウクライナの発展がのろのろ浮き沈みしたというコンディショナリティーの限界を示唆しています。また世界統治能力指標はウクライナの統治能力水準とEU加盟国最低水準であるルーマニアとブルガリア両国の統治能力水準との間には大きな隔たりがあることを示しました。ウクライナのEU基準への接近は時間がかかりそうですが、ENPの枠組下での連合協定へのウクライナの参加は自国の発展のためにEUコンディショナリティーの影響下でウクライナがEUの指示に従うことを表しています。ウクライナは21世紀における発展を欧州化の波を通じて続けていくのです。

2012年3月14日

5.4.7 世界統治能力指標によるウクライナの発展度合

ウクライナがすべての指標で最低の水準を記録した状況下においてウクライナの統治能力がEU加盟国の最低水準に達していないことを世界統治能力指標は示唆しています。また2007年のEU加盟国であるルーマニアとブルガリアは政治的安定以外のすべての指標でEU加盟国中最低水準を記録しました。この二カ国の政府における統治能力はEU加盟国の最低水準ですが、ギリシャ政府の統治能力はルーマニアとブルガリアの水準に接近しています。ウクライナの市民の声と説明責任の指標は2004年以来改善していますが、その他の指標における2004年から2009年の期間での改善は取るに足らないものとなっています。そして2009年におけるウクライナのすべての指標は悪化しています。浮き沈みが政治的安定と汚職取締の指標で観測されています。欧州委員会の進捗報告と世界統治能力指標の評価が互いに補完しあっていることを考慮すると、権力の分離による政治的不安定が改革を停滞させているため、アクションプラン及び連合工程の実行が予定通り進んでいないようです。よってウクライナのEUの基準や規範に基づいた総合的な発展はENPの導入以来限られたものもしくは取るに足らないものであるということができるでしょう。

2012年3月13日

5.4.6 汚職の取締

汚職の取締(世界統治能力指標より)
汚職の取締はエリートと個人の利益によって大・小規模の汚職および国家による略奪を含む私益のためにどの程度公共の権力が行使されているのかを説明します。[216] ウクライナでは2005年に改善されましたが、その後は悪化しています。2009年にはウクライナと2007年の新規EU加盟国であるルーマニアとブルガリアとの間には大きな隔たりがあります。汚職対策の一連の法案は2009年6月に採択されましたが、その施行はウクライナ議会によって延期されました。他国と比較したウクライナの汚職に関する立ち位置は悪化していると欧州委員会は報告しています。[217]

UKR: ウクライナ
ROM: ルーマニア
BGR: ブルガリア
ITA: イタリア
GRC: ギリシャ
LTU: リトアニア

[216] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[217] European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. pp.4-5

2012年3月12日

5.4.5 法の支配

法の支配(世界統治能力指標より)
法の支配は国家がどの程度信頼されており、契約の履行、所有権、警察、裁判所、犯罪と暴力の可能性を含む社会のルールをどの程度守っているのかを示します。[214] ウクライナと2007年にEUに加盟したルーマニアとブルガリアはその水準を一定に保っています。ウクライナとEU加盟国の最低水準との隔たりは2004年以来変わっていません。ウクライナの欧州評議会加盟(1995年)から一年以内に施行されるべきであった刑事訴訟法典の草案が議会の第一読会でようやく通過したため、司法改革と法の支配の進捗は限られた範囲内にとどまったと欧州委員会は報告しています。[215]

UKR: ウクライナ
BGR: ブルガリア
ROM: ルーマニア
ITA: イタリア
GRC: ギリシャ
SVK: スロバキア

[214] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[215] European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. p.4

2012年3月11日

5.4.4 規制の品質

規制の品質(世界統治能力指標より)
規制の品質は健全な政策と民間部門の発展を可能、促進する規制を提供する能力です。[212] ウクライナが期間中わずかに低下した一方でEU加盟国最低水準国としてのルーマニアは2004年以来改善しました。2008年5月にウクライナは世界貿易機関(WTO)に加盟したにもかかわらず、ウクライナは関税評価のWTOルールを完全に尊重していないと欧州委員会は指摘しています。さらに欧州委員会は企業統治を促進するためのさらなる努力が必要であるとも報告しています。[213]

UKR: ウクライナ
ROM: ルーマニア
BGR: ブルガリア
GRC: ギリシャ
SVN: スロベニア

[212] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[213] European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. pp.9-10

2012年3月10日

5.4.3 政府機能の有効性

政府機能の有効性(世界統治能力指標より)
政府機能の有効性は公共サービスの品質、行政サービスの実行力と政治的圧力からの独立性、政策形成の品質を意味します。[210] ウクライナでは2005年にわずかに改善しましたが、その後は少しずつ悪化しています。2009年の状況は2004年よりも悪化しているため、ウクライナとEU加盟国の最低水準であるルーマニアとの間には隔たりがあります。ウクライナ政府によって行政改革の草案、行政サービスの草案、国家行政の改革の分野における努力が行われているにもかかわらずその文書が存在しないことを欧州委員会は報告しています。[211]

UKR: ウクライナ
ROM:ルーマニア
BGR: ブルガリア
ITA: イタリア
GRC: ギリシャ
LVA: ラトビア

[210] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[211] European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. p.4

2012年3月9日

5.4.2 政治的安定と暴力・テロリズムの排除

政治的安定と暴力の排除(世界統治能力指標より)
政治的安定と暴力の排除は政府がテロリズムを含む非法規的や暴力的な手段によって不安定になりうる公算です。[208] 2007年にウクライナはルーマニアの水準に接近しましたが、2009年には急降下しています。しかしスペインとギリシャが政治的安定に関して大きく低下しているため、ウクライナの水準はスペインとギリシャのものに近くなっています。欧州委員会によると、ウクライナの大統領、首相、議会における権力の不確かな分割による政治状況の不安定さは改革を実行することを妨げ、ウクライナの結束と指導者の指導力に関する問題に取り組む継続的な必要性があると報告しています。[209]

UKR: ウクライナ
ESP: スペイン
GRC: ギリシャ
GBR: 英国
CYP: キプロス
ROM: ルーマニア

[208] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[209] European Commission. (2009, 04 23). Implemantation of European Neighbourhood Policy in 2008: Progress Report Ukraine. p.2, European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. p.3

2012年3月8日

5.4.1 市民の声と説明責任

市民の声と説明責任(世界統治能力指標より)
市民の声と説明責任は政府の選択、表現の自由、結社の自由、自由な報道に一国の市民がどの程度参加できるのかを示唆します。[206] ウクライナでは2004年から2006年にかけて改善しましたが、その後は変化しませんでした。大統領選挙はOSCEと欧州評議会の責務に基づいて実施され、2004年以来進歩がみられたと欧州委員会は報告しています。[207] しかしウクライナの改善にもかかわらず、依然としてEU加盟国とウクライナの水準には隔たりがあります。

UKR: ウクライナ
ROM:ルーマニア
BGR: ブルガリア
LVA: ラトビア
SVK: スロバキア
LTU: リトアニア

[206] Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). p.4
[207] European Commission. (2010, 05 12). Implementation of European Neighbourhood Policy in 2009: Progress Report Ukraine. p.4

2012年3月7日

5.4 ウクライナの発展

ENPの枠組みとアクションプランおよび連合工程の監視過程はEU加盟の過程をまねているように見えます。この類似性についてサッセはENPのもとでのアクションプランは民主主義の条件、市場経済、EUの法体系であるアキ・コミュノテールを受け入れる能力を明記したコペンハーゲン基準に従っていると指摘しています。[202] 実際、欧州委員会はENPの枠組みのもとで定期的な評価基準の達成度を報告する「進捗報告書」を発行し続けています。そしてこの進捗報告書はEU加盟過程における加盟候補国の報告書と同じタイトルです。EUはウクライナのEU加盟という目標を保留していますが、サッセはウクライナの場合におけるENPを「EU加盟へイエスかノーという議論からEUへの段階的な近似と統合への過程」と評価しています[203]
このウクライナにおけるENPの実体とこの章で議論したEUコンディショナリティーの特徴に従って、この節ではウクライナがEU加盟国と比べてどの程度EUの定める基準を満たしているのかを欧州委員会の発行する進捗報告書と共に計測することを試みます。1993年6月のコペンハーゲンサミットは重要となる第七章a-iii節にて以下のように結論づけています。
EU加盟は民主主義、法の支配、人権、少数民族の権利保護に対する配慮、市場経済が機能していること及びEU内の市場競争に耐えうる能力を保証する政府機関の安定を加盟候補国に要求します。加盟はEUの政治的、経済的、金融的な統合目的を厳守することを含む加盟国としての義務を果たす能力を加盟候補国が有していることを前提としています。[204]
コペンハーゲン基準は主に政府機構の発達と統治能力についての一定の水準について言及しています。世界銀行によって提供される世界統治能力指標[205]はこの一定の水準を計測することに役立ちます。世界統治能力指標は世界中の212カ国の各政府指標を総合したものです。データは英エコノミスト・インテリジェンスユニット米国国務省などのシンクタンク、非政府機関、国際・政府機関などの多様な調査機関より集められています。世界統治指標による指標は「市民の声と説明責任」、「政治的安定と暴力・テロリズムの不在」、「政府による統治能力」、「規制の品質」、「法の支配」、「汚職の取締」という6つの統治に関する側面を提供します。これら6つの指標は独立的な視点から統治に関する客観的な評価を与え、コペンハーゲン基準が言及した民主主義の保証、法の支配、人権、市場経済の機能という領域をカバーするものです。このような理由により、ウクライナとEU加盟国の統治に関する品質を世界統治指標によって分析することは妥当で有益なことといえるでしょう。
もしコペンハーゲン基準とアキ・コミュノテールの採択を実行することがEU加盟国の政府機関の統治能力を標準化し、一定の水準の統治能力を保証するのであれば、世界統治指標ではEU加盟国における指標水準のある程度の一致を観測し、アキ・コミュノテールで謳われる水準に満たないウクライナの統治能力はEU加盟国の最低水準を大きく下回るはずです。この考えに従い、ウクライナの統治能力とEU加盟国の最低水準の統治能力の間の距離を計測するため、各指標をウクライナと2009年の最低水準のEU加盟国5カ国について見てみることにしましょう。またEU・ウクライナのアクションプランで計画された期間およびユーシェンコ政権の期間である2004年から2009年の範囲で比較を行います。
世界統治能力指標は標準化された-2.5から+2.5の範囲での単位によって計測され、高い値がよい統治能力を有することに一致します。この節を執筆している2010年12月現在、最新の世界統治能力指標は2010年9月に発表された2009年の情報です。

[202] Sasse, G. (2008). p.302
[203] Ibid. p.308
[204] European Union. (1993, 06 22). EUROPEAN COUNCIL IN COPENHAGEN - 21-22 JUNE 1993- CONCLUSIONS OF THE PRESIDENCY -.
[205] The World Bank Group. (2010). The Worldwide Governance Indicators (WGI) project, Kaufmann, D., Kraay, A., & Mastruzzi, M. (2010). The Worldwide Governance Indicators: Methodology and Analytical Issues.

2012年3月6日

5.3 連合工程と連合協定

2009年11月23日、EU・ウクライナ協力審議会はEU・ウクライナアクションプランの失効に伴い連合工程を採択しました。工程表はアクションプランを置き換え、EUとウクライナ共通の機構的枠組みを更新する連合協定が話し合われることになりました。EU・ウクライナ連合協定に向けて連合工程が暫定的な合意として連合協定が準備導入されることになりました。[199]この第五章を執筆している2010年12月26日現在、連合協定はまだ締結されていません。 2010年11月22日の第14回EU・ウクライナサミットにて欧州委員会委員長バローゾとウクライナ大統領ヤヌコヴィチは連合協定の重要性を強調し、ウクライナの政策がEUの規範や基準、ベストプラクティスへ収束していくことを通じて部門的統合を促すサミットでの議定書を歓迎しました。[200] 工程表は民主主義、法の支配、基本的人権、根本的な自由、汚職対策、外交・安全保障政策、司法における協力、自由と安全保障問題、完全な自由経済の機能を確立させる経済協力、エネルギー協力を促進する政治的対話を明記しました。工程表の最後の段落には両者における共通委員会による工程表の進捗を確認するための監視を明記しました。[201]新たな枠組みである連合協定は今後締結されることになっていますが、暫定的な手段である連合工程の視点はアクションプランの枠組みを超えるものではないようです。

[199] European Commission. (2009, 11). EU-Ukraine Association Agenda. pp.1-3
[200] Council of the European Union. (2010, 11 22). 14th EU-Ukraine Summit (Brussels, 22 November 2010) Joint Press Statement. p.1
[201] European Commission. (2009, 11). EU-Ukraine Association Agenda. pp.6,10,13,15-16,21,35

2012年3月5日

5.2 コンディショナリティーの特性から見るENPの解釈

EUでのコンディショナリティーの起源は明瞭な加盟への前提条件を定義したコペンハーゲン基準にまでさかのぼります。[186]よってEUによって課されるコンディショナリティーの適用は1990年代以来EU加盟希望国が加盟を準備できるようにするためのEU東方拡大と関連しています。[187]
コンディショナリティーという用語を解釈する場合、それは「アメとムチ」または損益計算に基づいた外部インセンティブモデルなどとして多くの学術論文で説明されています。[188] この説明はEU東方拡大と欧州近隣政策(ENP)との間におけるコンディショナリティーの影響を比べる場合に適切です。この場合、ENPはそのEU加盟というインセンティブの欠如のために東方拡大ほど有効ではありません。しかしこの節でEUとウクライナのようなENP加盟国との関係を映し出すコンディショナリティーの特性を念入りに吟味するため、コンディショナリティーの概念を明確に示している国際通貨基金(IMF)からその概念と原則を拝借することにします。おそらくコンディショナリティーという用語はIMFが加盟国を救済するときに数十年にわたって使用されてきました。金融危機の際に危機を克服するためにIMFは厳格な手段を破産寸前の国家に課してきました。この理由によってIMFコンディショナリティーはおそらくそれが1952年に最初に用いられて以来IMFにおける最も議論を呼ぶ政策のひとつとなっています。[189]前IMF業務執行取締役のブイラはコンディショナリティーという用語を「対策プログラムが履行されていることを確実にするために外部からの政策を行使するための援助及び試みを提供する手段である」と定義しています。[190] 彼の定義は最も説得があるように思われるため、この定義とニュアンスをEUとENP加盟国との関係を取り扱うEUコンディショナリティーへも当てはめてみましょう。この文脈ではENP加盟国はEUが提案し、それをENP加盟国が適切を納得したベストプラクティスを実行しなければなりません。よって実際にはENP加盟国はEUからの援助と引き替えに国内の政策を調整しなければなりません。
コンディショナリティーの特性として、確かな政策の適用と引き替えに金銭的、政治的なインセンティブを提供するEUのような外部の力による介入は国家の主権を侵害する可能性があります。アクションプランは共有の合意とENP加盟国の意志によって合意されるものではありますが、[191] 適切と思われるベストプラクティスとしてのEUの基準、EUの価値観、EUの規範、コペンハーゲン基準というような外的要因は国内政策の結果へ影響力を行使することを追求するため、コンディショナリティーは押つけがましく見られることがあります。この特性の背景には豊かで力のあるEUと貧窮して弱いENP加盟国の力関係が理由となっています。この力関係に関してオルセンは援助とEUの基準を受け入れる必要性は力の差異を示唆するというコンディショナリティーの影響力の側面を指摘しています。[192]またサッセはコンディショナリティーの概念は力の非対称性に依存すると論じています。「インセンティブと施行の構造が両者においてより明確でないというENPの文脈上、EUと加盟候補国との関係を特徴付ける力の非対称性はあまり明白ではない」と彼女は指摘しています。[193] さらにブイラは「コンディショナリティーは親や先生が子供を自身の思惑によって指導するパターナリズム(父権主義、温情主義)のように、ある国がその国にとって良いと思われる方向へ導かれる一種の父と子の関係である」とも論じています。[194] この力関係を考慮すると、EUがなぜロシアをENPの枠組みに入れずに対等関係に基づいた「戦略的パートナー」[195]という別の概念を利用しているという理由のひとつがコンディショナリティーの特性によって説明できます。明らかにEUにとってコンディショナリティーを強力なパートナーへ課すことは困難で、EUはEUの規範や価値を共有できない強いパートナーにはコンディショナリティーを課すことはできないのです。これはコンディショナリティーの特性であり前提条件でもあります。もしコンディショナリティーがうまく機能する場合、ENP加盟国はEUと比べて政治的、経済的に遙かに貧窮しており、彼らはEUの統治方法がよいものであると納得している必要もあります。
EUは公式にはENP加盟国に条件を強いることは追求しないとしていますが、[196] EUのベストプラクティスに基づいたよい政策を実行するためのENP加盟国の技術的知識、経験、金融資源が欠如しているという現状、EUがENP加盟国を支援するための専門家と資源を持ち合わせている現状において、このコンディショナリティーの親と子の関係にあたる概念はまさにEUの先導によるアクションプランの場合となりえるものです。よってアクションプランは対等な両者の合意というよりはむしろ医師による処方箋もしくは更生計画として解釈することができます。さらにコンディショナリティーはENP加盟国にとってENPそのものの目的を達成するために必ずしも必要でない要素をアクションプランの政策工程として課するかもしれません。これらの要素はEUの加盟国によって提案され、ENP加盟国ではなくEU加盟国の利益であるかもしれないのです。EUはコンディショナリティーの概念をEUの東方拡大とあわせて採用したという事実を考慮すると、アクションプランの履行はすべてのEU加盟国の国益が含まれているコペンハーゲン基準とアキ・コミュノテールへの接近を意味します。この仕組みもしくはコンディショナリティーの特性としての命令的な力はオルセンが「欧州モデルの拡大が時に現実問題として植民地化、強要、強制の様相を呈する」という欧州機関の非EU加盟国を対象としたEU域外への輸出としての欧州化として定義するひとつの場合として解釈することができます。[197] さらにこれはまたマナーズが国家の主権を侵害することを欲する「規範的支配力の欧州(Normative Power Europe)」とEUを表現した場合にも相当します。[198] この欧州化としてのコンディショナリティーの支配力は議論を引き起こすものとなっています。

[186] Albi, A. (2009). p.211
[187] Wolczuk, K. (2009). p.190
[188] Grabbe, H. (1999). p.8, Noutcheva, G., Tocci, N., Coppieters, B., Kovziridze, T., Emerson, M., & Huysseune, M. (2004). pp.29-30, Trauner, F. (2009). p.776, Maier, A. (2008). pp.71,72,74,86, Gstöhl, S. (2008). pp.139-142, Briens, M. (2008). p.215, Högenauer, A.-L., & Friedel, M. (2008). pp.267-268, Schimmelfennig, F. (2005). p.831, Kochenov, D. (2007). p.469, Manners, I. (2002). p.245
[189] Buira, A. (2003). pp.1-2
[190] Ibid. p.3
[191] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.8
[192] Olsen, J. P. (2002). p. 939
[193] Sasse, G. (2008). pp.302-303
[194] Buira, A. (2003). p.12
[195] Mahncke, D. (2008). p.22
[196] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.8
[197] Olsen, J. P. (2002). pp.924, 938
[198] Manners, I. (2002). p.252

2012年3月4日

5.1 欧州近隣政策 (ENP)

2004年のEU東方拡大以降の東ヨーロッパの地方においてEUの隣国と良好な関係を構築する必要性が欧州近隣政策の設立を動機づけました。[168]ENPは明示的に将来の加盟への展望を除外してものではありますが、EU東方拡大における制度上および手続き上の経験に基づいたものです。[169]ENPの実行のためにEUの声明として一連の文書が発行されました。この節ではENPの公式の目的とこれらの文書を通じての手続きを次の節でENPを分析するために把握します。
ENPの起源は2002年に英国がウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ロシアを対象として「より広大な欧州」の先導を求めたことによって発展しました。[170] 2002年12月、欧州委員会委員長のプロディがEUの隣国との関係を扱う近隣の政策を「パートナー以上、EU加盟未満、そして加盟を除外することなく」という表現と共に表明しました。[171] 公式な宣言は2003年3月11日の欧州委員会による声明として宣言されました。ウクライナは対象国のひとつでした。その声明はウクライナに「EU域内の市場へのアクセス」への見通しと人、財、サービス、資本の移動の自由をEUに加盟することなくさらに統合・自由化を提供することでした。その対価としてEUと価値観の共有、アキ・コミュノテールといわれるEUの法体系と対象国との法体系を整列させることを含む政治経済の改革において具体的な進展が対象国は求められました。[172]この書類においてプログラムの利点と便宜を受けるための条件が明らかになりました。この声明はまた目標と評価基準を設定するアクションプランについても言及しました。[173]
2004年5月12日に発行された戦略文書に明記されたENPの目標は「2004年のEU東方拡大の利益を安定化、安全保障、すべてに関する福利において近隣諸国と共有すること」[174] および「拡大したEUとその近隣諸国との間での新たな分割の台頭を防ぎ、彼らにさらなる政治的、安全保障上、経済的、文化的な協力を通じて多様なEUの活動へ参加する機会を提供すること」としています。[175] EUはEUとEU非加盟国の間での広範囲な分野での分割を緩和したかったのです。この目的はアクションプランによって実施されることとなりました。
アクションプランはプログラムの具体的な計画というよりはむしろ計画不履行の場合に法的拘束力がなく、以前から存在している契約で保証されたEUとの関係に基づいた目的の政治的な宣言です。[176]アクションプランは1994年に調印され1998年3月に施行され[177]、幅広い分野における協力を提供するEUとウクライナの関係における法的枠組みを構成するパートナーシップと協力合意(PCA)を置き換えずに強化することを目的としました。EUはアクションプランをENP加盟国と個別に締結します。よってアクションプランの内容はENP加盟国がどの程度EUに接近したいのかに依存することになり、それらは国々によって異なるものになります。EUはこの点を「共有の所有権」として強調しており、それは「共通の合意とENP加盟国の意志」として定義されています。[178]
2005年2月21日のEUとウクライナのアクションプランは3年間わたって設定されました。PCAまたは提携合意は法的、規制力をもつEU法への接近のための工程表を作成しませんでした。[179]アクションプランの実行はPCAの既存の合意を助け、ウクライナの法律、規範、基準、がEUのそれらへの接近を前進させることを目的としました。[180] それはPCAを履行するための具体的な段取りを明記し、現状の協力関係をさらに発展させることを奨励しました。[181]ウクライナにおいてアクションプランはクチマ政権によって合意されました。ユーシェンコ大統領は2005年にウクライナのEU加盟を目標として主張し、宣言とアクションプランの実行の溝を埋めることを約束したにもかかわらず、ユーシェンコ政権はクチマ政権によって1998年と2000年に採択されたウクライナのEUへの統合に関する国内の主要な文書を更新しませんでした。[182]
アクションプランは特定の活動のための優先順位を設定しそれらは監視、評価されることができる評価基準で構成されました。監視は共有の所有権を補強すべきであり、ENP加盟国は詳細な情報を共有の監視活動という原則としてEUに提供することが求められました。そして欧州委員会はENP加盟国による評価が考慮され、ENP加盟国がさらなる努力を行う定期的な進捗報告書を発行します。[183] ウクライナの場合、EUとウクライナの協力議会がアクションプランの実行を監視することになりました。[184] 2006年以来、欧州委員会は年時の進捗報告書を発行しています。
コンディショナリティーの概念は戦略文書で言及されましたが、ENP加盟国がアクションプランの目的を履行する限りにおいてEUはEU域内の市場へのアクセスや金融・技術的支援のような利点をENP加盟国に提供することになっていました。[185]

[168] Bürger, J. (2008). p.165
[169] Sasse, G. (2008). p.295
[170] Mahncke, D. (2008). p.23
[171] Prodi, R. (2002, 12 06). Romano Prodi President of the European Commission A Wider Europe - A Proximity Policy as the key to stability "Peace, Security And Stability International Dialogue and the Role of the EU" Sixth ECSA-World Conference. Jean Monnet Project. Brussels, 5-6 December 2002.
[172] European Commission. (2003, 03 11). Neighbourhood: A new framework for relations with our Eastern and Southern neighbours. p.10
[173] Ibid. p.16
[174] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.3
[175] Ibid.
[176] Mahncke, D. (2008). p.37
[177] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Country Report: Ukraine. p.3
[178] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.8
[179] Gstöhl, S. (2008). pp.152-153
[180] European Commission. (2005). EU/Ukraine Action Plan. p.1
[181] Bürger, J. (2008). p.168
[182] Wolczuk, K. (2009). p.200
[183] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. pp.9-10
[184] European Commission. (2005). EU/Ukraine Action Plan. p.42
[185] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. pp.4, 8, 9, 25

2012年3月3日

5 欧州化の波から見るEU・ウクライナ関係

2004年はウクライナにとって独立以来最も重要な年であり、EUの東方拡大の結果としてEUと直接境界に接する歴史的なシフトをもたらしました。一連のEU東方拡大での出来事は実際にはウクライナの領域を変更するものではありませんでしたが、21世紀における政治的、経済的、地理的な意味での新しい国境線画定としてとらえることができます。ウクライナの西部国境線がEUの国境と一致して以来EUはウクライナに何を提供してきたのでしょうか?この問いは第五章での基本的な問題です。よってEUの隣人としてのウクライナにとって2004年からのEUとの関係を解釈することは避けて通れないことなのです。
EUは政治的、経済的に最も発展して豊かな隣人なので、ウクライナのような1990年代に新たに独立した国家が凝視してきた成功モデルもしくはベストプラクティスとしてEUは見られてきました。1998年6月、ウクライナ大統領クチマは長期的な戦略的目標と重要な先見事項としてウクライナのEU加盟を目標とする政令に署名しました。[167] クチマの後任者であるユーシェンコは独立後のどの大統領よりもEUへの傾向を強めました。民主国家としての20年間に及ぶウクライナの国家建設は進展していたはずです。
第五章の目的はウクライナがどの程度EUとの関係を通じて発展してきたのかを欧州的観点から調査することです。欧州的規範に基づいてウクライナの発展度合いを計測するために第五章ではまずEUがウクライナとの関係を定義する欧州近隣政策(ENP)を欧州化の波として焦点を当てます。それに続く節ではENPの核心となる概念であり欧州化の具体的な形であるコンディショナリティーという概念に基づいてENPの背景にあるEUとウクライナの関係を分析します。そしてENPの現状を簡潔に確認した後、ウクライナの発展度合を欧州委員会の報告書と共に計測します。
第五章はウクライナのEU加盟問題を議論するものではありませんが、この問題はEUの東方拡大過程で重要な役割を演じたコンディショナリティーを議論することは避けて通れず、現実的なことです。EUとウクライナの関係を解釈し、EUとウクライナの距離をウクライナの発展度合という観点から計測するため、このコンディショナリティーの議論は将来のウクライナのEU加盟について何か示唆するようなことがあるかもしれません。

[167] Wolczuk, K. (2009). p.192

2012年3月2日

4.5 第四章まとめ:クリミア半島の自治権

クリミア半島の歴史と民族構成はクリミアがソビエト連邦崩壊後に深刻な民族対立を起こしていたかもしれない十分な条件が整っていたことを示しました。しかし1990年代にクリミアで発生したことは主に民族対立というよりはむしろ中央政府と地方政府の対立でした。 このタイプの対立の背景にある理由としては以下の2点があげられます。第一に1990年代初頭のロシア人による民族運動はクリミア経済が独立後に疲弊する中でロシア人のアイデンティティーが曖昧であったために持続的ではなかったことです。メシュコフ政権の浮き沈みはこの弱い団結を表しています。第二にロシア議会が情勢の流動化に拍車をかけていた中でイェリツィン政権がクリミアにおけるロシア人の民族主義からは距離を置いたことです。これらの2点は純粋なキエフとシンフェロポリによる対立の構図を作り上げたのです。
コーネルが指摘した3つのリスクはクリミアの場合では相殺されました。闘争の結果による憲法に明記された「ウクライナにおけるクリミアの自治権」はさらなる自治への要求を和らげることができます。ソビエト政権下の土着化政策によって1920年代にクリミアに自治権があったという既成事実は1990年代初頭にクリミアに自治権を与えることに貢献しました。ロシアの関与の欠如はクリミアの政治情勢流動化に対する介入の可能性を減少させるものでした。これらの理由はクリミアに自治権を付与することに対して正当性の感覚を与えました。
中央政府と地方政府の権力闘争の中で、ウクライナの国家建設とクリミアの地位問題は両者の注目を憲法制定へと向かわせました。長引いた憲法制定過程はOSCEの調停によって両者の妥協を引き出しました。ウクライナにおける自治という地位はキエフがクリミアをウクライナ主権下へ収め、シンフェロポリは自治権の地位を憲法へ明記することに成功したお互いの妥協を象徴しています。セヴァストポリの賃貸合意とロシアとの条約締結はウクライナにクリミアでの主権を承認することになり、クリミアに対するロシアのこれ以上の野心を防ぐことになります。憲法上および国際的に中央政府のキエフがクリミアを支配下に置いたことはウクライナの国家建設を強化することになったのです。この意味においてクリミアの地位に関する交渉は中央政府に対して好ましい影響を与えたのです。
最後にクリミア・タタール人は完全に蚊帳の外でした。いったん問題が中央政府と地方政府の対立となると、人数の少ないタタール人にとっては彼らの声を代表する余地がありませんでした。クリミアのロシア人とは異なりクリミア・タタール人は彼らに肩入れを行う親類となる国家がありませんでした。1990年代タタール人はよく組織されていましたが、彼ら置かれた立場はとても貧窮した状態でした。外国からの援助のないクリミア人口の12.1%を占めるにすぎない少数民族が1990年代にロシア人がおこなったようなクリミアでの政治情勢を流動化させることは困難でしょう。しかしこの解決されていないタタール人の問題が今後解決されるべきリスクであることには疑いの余地はありません。

2012年3月1日

4.4.2 欧州安全保障協力機構(OSCE)の役割

クリミアにおける政治情勢の流動化はロシアだけではなくその他の国際機関とも密接に関連していました。国際連合、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州評議会、欧州連合(EU)など少なくとも4つの国際機関がクリミアに関与していました。特にOSCE国家少数民族高等弁務官は憲法制定過程で重要な役割を果たしました。1994年2月、初代国家少数民族高等弁務官マックス・ファンデアストールはOSCEの原則に基づいた政治的解決を促進するためにウクライナ政府によって招聘され、憲法制定過程での重要な提言を行いました。彼の提案はクリミアとウクライナの両憲法に「ウクライナにおけるクリミア自治の地位」という条項を挿入することでした。クリミア憲法はウクライナ語を国語として、ロシア語とタタール語は公用語として採用されるべきと彼は提案しました。さらにクリミアは分離独立したクリミア国民の要求を取り下げるべきとも主張しました。これらの提案はキエフとシンフェロポリの両者によって受け入れられ、両者の妥協を引き出しました。[164]
国家少数民族高等弁務官は憲法制定プロセスへの介入だけはなく少数民族の地位改善、特にクリミア・タタール人の地位改善に貢献しました。1991年11月13日にウクライナ市民権法が施行された後、1万800人もの主にウズベキスタンからのクリミアへ帰還したクリミア・タタール人はウクライナの市民権を持っていませんでした。よって彼らは選挙で投票する権利がありませんでした。[165] ウクライナは二重国籍を認めないため帰還者は以前の国籍を放棄しなければなりませんでした。しかしウズベキスタンの場合を見てみると国籍を放棄する手続きは時間と費用がたくさんかかりました。国家少数民族高等弁務官の提言後、ウクライナ・ウズベキスタンの両政府はウクライナへの帰還者への国籍の移管を効率的に行えるようにする二重国籍防止に関する合意に調印しました。2万5千人ものタタール人がこの合意の恩恵を受けました。[166]
ロシア議会がクリミアに対する民族主義的な決議を採択したとき、イェリツィン政権はクリミアにおける政治情勢の流動化を支持しませんでした。さらにチェチェン戦争はロシアがクリミアから距離を置く要因となりました。これらのふたつの要因はクリミア情勢の流動化を下火にしました。ロシアがクリミアから距離を置いたことはコーネルの第三の指摘部分の土台を崩すことになります。核武装解除の条約、20年間のセヴァストポリ貸し出し条約、友好条約はロシアが核兵器と黒海艦隊を手に入れる代わりにクリミアとセヴァストポリにおけるウクライナの主権を認めることを表しています。これらの条約はロシア議会がさらなる要求を行うことを防ぐことになりました。OSCEの役割は憲法制定過程で重要でした。OSCEの介入はキエフとシンフェロポリの両者に妥協をもたらしました。ウクライナにおけるクリミアの自治というアイデアはOSCEによって提案され、それは交渉の決裂を防いだのです。

[164] Bowring, B. (2005). pp.83-84
[165] Shevel, O. (2001). Crimean Tatars and the Ukrainian state: the challenge of politics, the use of law, and the meaning of rhetoric.
[166] Bowring, B. (2002). p.66

2012年2月29日

4.4.1 ロシアと黒海艦隊

クリミアはしばしばロシア国内政治における政治的道具としてみなされていました。1990年代初頭、ロシア議会は一連のクリミアに関する挑戦的な議決を行いました。ロシア議会のクリミアに対する立場は論争を引き起こすものであった一方でロシア大統領イェリツィンと彼の政権は挑発的なロシア議会の議決からは距離を置きました。この不一致はロシアのクリミアへの関与を少なくするものでした。ソビエト連邦後のロシアの指導者は現状の国境が不可侵であると定義する1991年12月8日の独立国家共同体(CIS)合意によってソビエト後の国境線を維持する問題に終止符を打とうとしました。しかしロシア黒海艦隊の地位は未決定でした。72%の黒海艦隊人員が1991年12月1日のウクライナ独立へ賛成票を投じました。[160]黒海艦隊は独立国家共同体が艦隊の指揮権を持つことを想定した一方で、そのウクライナ独立へ賛成票はロシア民族とウクライナの独立は黒海艦隊人員のアイデンティティーを定義する要因ではなかったとみなされました。 「多くの1991年の独立へ賛成票を投じた人々は経済的理由によってそれを行ったのです。」とSzporluk が指摘しています。[161] 1992年5月と12月、ロシア議会は1954年のクリミア半島の移管と黒海艦隊の地位に関する合法性に疑問を投げかけました。1993年7月9日、ロシア議会はクリミア半島の統治権と黒海艦隊がロシアの主権下に置かれるべきであるという決議を採択しました。[162] 前述の通り黒海艦隊とセヴァストポリはロシアにとって単に重要な海軍基地であるだけはなくロシアの歴史にとって重要で象徴的な基地であるのです。ロシア議会が1992年5月21日に1954年のクリミア移管を無効化したとき、ロシア人のアイデンティティーに関連づけられたクリミアの地位はイェリツィン自身の民主化運動を動揺させうる重要な要因であったため彼はその議決から距離を置きましたロシア議会の議決に対応してウクライナ政府は国際社会と国連安全保障理事会からの支援を要請しました。国連安全保障理事会はウクライナの領土保全に約束を与え、ロシア議会の決議が国連憲章と1990年のロシア・ウクライナ二国間合意との矛盾を指摘しました。ロシア政府は対話を通じてウクライナと不一致を解決することを引き受けました。米国の仲介によるウクライナとロシアの核武装解除合意はウクライナに領土保全の保証を与えました。この合意はロシアのクリミアへの支配権の主張を終わらせることになりました。また1994年12月のチェチェン戦争の勃発は分離独立運動からロシアの注意をそらすことになりました。1997年5月28日、両国の首相はキエフにてロシアがセヴァストポリをウクライナの領土として認識して黒海艦隊の分割に関する二国間合意を調印しました。ウクライナはロシアに20年間にわたってセヴァストポリの海軍基地を貸し出し、最初の20年後は5年おきに両者の合意のもので貸出期間を延長する可能性を認めることになりました。この二国間合意は友好と協力におけるロシア・ウクライナ条約の締結をもたらしました。1997年5月、両国の大統領はモスクワにて条約の締結を行いました。ウクライナ議会はこの条約を素早く批准したのに対してロシア議会は批准プロセスを長引かせました。それにはロシア議会が合意に対して気が進まない幾つかの要因がありました。ロシア議会はクリミアにおけるロシア人に対する差別を批判しました。新しいクリミア憲法はウクライナ語を唯一の公式言語として定義していることに対して、ロシア議会は1100万人のウクライナにおけるロシア人は少数民族ではなくウクライナ人と共に多数派民族として扱われるべきであると主張しました。しかしイェリツィンからの圧力によってロシア議会は最終的に1999年2月17日に条約に批准しました。[163]

[160] Ibid. p.223
[161] Szporluk, R. (2000). p.321
[162] Kuzio, T. (2007). p.76
[163] Sasse, G. (2007). pp.224-237

4.4 国際的な関与


ウクライナのクリミアに関する国内政策と外交政策は切っても切り離せません。クリミアに関する問題はウクライナ国内だけの問題ではなく国際的な問題でもありました。ロシア・ウクライナ関係はクリミアにとって重要であり、国際社会もまた問題を解決するためにクリミアに関与してきました。この節では国際的な要因がどの程度クリミアとウクライナに影響を与えたのかを調べます。

2012年2月28日

4.3.2 クリミアの政治機構化

クチマ政権のクリミアへの政策はメシュコフによって強化されてクリミア最高会議は中央政府の援助を必要としていました。キエフはクリミアと密接な関係を築きました。ウクライナ議会はクリミア最高会議に対してクリミア憲法を変更し、1994年11月1日の中央政府の規範を遵守する法律へと変更するよう最終提案を行いました。多くの改革派とクリルタイ派はこの発議を支持しました。1995年初頭、クリミアにおける政治的対立は経済問題で深刻化しました。新たに任命されたクリミアの首相はキエフに対して政治的保護を求めました。1995年3月、中央政府は最終的解決として中央当局の関与を強く主張する行動に出ました。[155] キエフはクリミア大統領職に関する法律を撤廃し1992年5月6日の分離独立主義の立場をとる憲法を無効化しました。[156] クリミア最高会議はロシアに救援の要請を行いましたが、ロシアは自国の分離独立問題であるチェチェンへの軍事介入を行っていたためクリミアに関与する余裕はありませんでした。1995年9月21日、クリミア最高会議は5月憲法の修正をウクライナの法律を遵守する新憲法草案として採択しましたが、その草案はキエフにとって受け入れられるものではありませんでした。キエフとシンフェロポリの両者は各条項を個別に交渉して最終的に150項目の条文中130項目について合意しました。11月1日、クリミア最高会議はクリミア・タタール派が投票をボイコットする中で憲法を採択しました。[157] 最終的なクリミア憲法はタタール人の政治的要求を代表するものではありませんでした。[158] 1996年1月31日、クチマは中央政府から派遣される大統領の代理人を設置する大統領令を発効しました。2月にはウクライナ憲法草案が議会で通過し、それはキエフとシンフェロポリの間で新たな緊張を引き起こしました。このウクライナ憲法草案はクリミアの権力の縮小と「自治」という曖昧な用語を用いてのウクライナ主権におけるクリミアの地位の正常化を謳いました。シンフェロポリはウクライナ憲法草案が国際的な義務を侵犯したものであると抗議し欧州安全保障協力機構(OSCE)がこの問題に介入しました。ノードウェク円卓会議(Noordwijk Roundtable)は妥協案として不完全なクリミア憲法を批准することへの国際的正当性を与えました。 ウクライナ議会は最終的にこの提案を受け入れてクリミア憲法草案を採択しました。1996年の不完全なクリミア憲法はキエフとシンフェロポリの間での新たな交渉へと道を開きました。1998年のクリミアでの選挙で共産党とその指導者であるハラチが勝利すると交渉はハラチによって進められました。新しいクリミア憲法草案におけるより大きな経済的自治権を求めることでクリミアの世論は形成されていました。ハラチの草案は1998年10月21日にクリミア最高会議で採択されました。その草案の特徴は外交・経済関係に関する自治権、資源の管理、予算の独立性、税制、首相任命権についてでした。いったんこの草案がウクライナ議会によって否決されるとクチマは両者における主要な指導者が参加する会合を組織しました。条約に基づいた関係と税制に関してのウクライナ議会による幾度かの修正の後、クリミア憲法は最終的に1998年12月23日にウクライナ議会によって採択されました。[159]
分離独立運動が荒廃していたクリミア経済と不十分なロシアからの援助のために下火となっていたことは中央政府のキエフにクリミア情勢を有利に進める要因となりました。クリミアとウクライナ政府との関係における特徴は両者の交渉が独立国家ウクライナの国家建設の最中に行われたことです。シンフェロポリとキエフのふたつのプロセスがクリミア憲法とウクライナ憲法作成のプロセスに集約されたのです。このプロセスは時間がかかり、交渉はその場しのぎ的に見えますがこれらの長引いた交渉は両者に妥協をさせることになりました。この妥協はクリミアのウクライナ主権下の自治という地位によって表されています。キエフはクリミアをウクライナ主権下に置くことに成功し、シンフェロポリは自治という地位を獲得してその地位はクリミアとウクライナの両憲法に明記されています。クリミアの地位をウクライナにおける自治権へと制約するというキエフの成果はコーネルの第一の点を争議の最終的解決として和らげるものです。

[155] Ibid, 177-178
[156] Bugajski, J. (2000). p.174
[157] Sasse, G. (2007). pp.179-180
[158] Shevel, O. (2001). Crimean Tatars and the Ukrainian state: the challenge of politics, the use of law, and the meaning of rhetoric.
[159] Sasse, G. (2007). pp.180-202

2012年2月27日

4.3.1 独立ウクライナとクリミアの政治情勢の流動化

モスクワでの失敗したクーデター直後の1991年9月4日、クリミア最高会議はクリミアの国家主権を「主権、団結、不可分のクリミア・自治ソビエト社会主義共和国」として宣言しました。[150] この宣言はクリミアを「クリミア共和国」として宣言して政治情勢の流動化の出発点となりました。
1991年12月1日、ウクライナは独立のための国民投票と大統領選挙を実施しました。ウクライナ全体では90%の有権者が独立支持であったのに対して54.2%のクリミアにおける有権者が独立を支持しました。1992年中央政府のキエフはクリミアに対する明確な政策を持っておらず、このことがウクライナ独立直後のクリミア情勢の流動化をもたらしました。1992年5月6日のクリミア最初の憲法は分離主義の立場をとりこの憲法はウクライナ政府によって直ちに拒否されました。クリミアの首都シンフェロポリは独立のための国民投票を行うとキエフを脅しました。しかしキエフは交渉とクリミア最高会議への憲法修正の余地を与えました。キエフとシンフェロポリの両者は対話を続ける用意がありました。5月23日、シンフェロポリは独立の宣言を無効化して国民投票を延期しました。最終的には1992年5月の憲法は「クリミア共和国」からウクライナにおける「州」へと修正されました。この憲法はクリミアの地位と領域的用語における権力を定義しました。この自治権取得への運動の最初の段階ではクリミア・タタール人は含まれていませんでしたが、彼らは旧ソビエト連邦の中でも最もよく組織されていた民族集団でした。[151]
1993年9月、クリミア最高会議はクリミアにおける最高位の役職としての大統領の役職を設置してそれはウクライナ議会によって承認されました。翌年、親ロシア派の民族主義者ユーリ・メシュコフがクリミア大統領として選出されました。彼の大統領への投票はクリミアにおける曖昧に定義された「ロシア的見解」への賛成票として理解されています。彼の分離主義政策はキエフだけではなく地元の政府内とも係争を引き起こしました。彼はロシアとの合併への見通しをクリミアの経済発展への解決策として求め、ロシア人の経済学者をクリミア首相として任命しました。しかしこのことは経済改革におけるクリミア最高会議の憤慨を引き起こしました。[152] 多くのクリミアの人々は彼の極端な民族主義はキエフとの関係悪化をもたらしてそれはクリミアの経済状況悪化という結果になるとみなしました。この知覚は彼の人気低下につながりました。[153] 彼はウクライナ議会選挙のボイコットを呼びかけましたが、このボイコットは彼自身のロシアブロック党が代表をキエフのウクライナ議会へ送る機会を逃すことになりキエフでの彼の影響力が限定されたものになりました。これらの間違いは中央政府のキエフに再びクリミアへの影響力を拡大させることを助けました。さらに新たに選出されたウクライナ大統領クチマはクリミアの自治権とロシアとの強力な結びつきを支持しました。このことはメシュコフ政権下での混乱からの安堵感をクリミアに与えました。[154]
この点においてクリミアの政治情勢の流動化は民族の分裂に基づいたものではなく歴史的・経済的理由によるものだったのです。キエフの中央政府とクリミアの地方政府の対立はロシア人とウクライナ人の民族的対立よりも重要だったのです。このことはクリミアの政治情勢の流動化における顕著な特徴でした。

[150] Solchanyk, R. (2001). p.188
[151] Sasse, G. (2007). pp.140-149
[152] Ibid, pp.156-160, 168-169
[153] Kuzio, T. (2007). p.161
[154] Sasse, G. (2007). pp.164, 171

4.3 ウクライナ主権下におけるクリミア自治の地位

分離独立運動が発生した状況下でウクライナは1990年代になんとかクリミアを自らの主権下に統合することに成功しました。この節ではどのようにクリミアは新しく独立したウクライナ国家に組み込まれどのような対立があったのかという問いに答えるためにクリミアの政治機構化を調査します。

2012年2月26日

4.2 ロシア人、タタール人、ウクライナ人の各民族的由来

クリミアの顕著な特徴は前節で述べたタタール・ハン、ロシア帝国、ソビエト連邦の支配という複雑な歴史的背景による多民族構成です。「すべてのコミュニティーは同じクリミアという領土をそれぞれの故郷としています。」[139]この節ではロシア人、クリミア・タタール人、ウクライナ人という主要な3つの集団に焦点を当て、彼らがそれぞれのコミュニティーをクリミアでどう理解しているのかを人口統計上の変化と共に見ていきます。
2001年の国勢調査によるとロシア人、ウクライナ人、タタール人の全人口に占める割合はそれぞれ58.5%、24.4%、12.1%となっています。[140] クリミアでの問題をより複雑にしている部分はその言語的構成です。77%の人口がロシア語を母国語としています。59.5%のウクライナ人がロシア語話者ですが、90%以上のロシア人とタタール人は自身の言語を母国語としています。[141] 民族にかかわらずロシア語が支配的な言語であることはクリミアがロシアの文化に深い由来があることを示す重要な特徴です。これはクリミアの人々が民族にかかわらず一般的にロシア化されていることを意味します。
クリミアはロシア人が人口の大多数を占めるウクライナにおける唯一の地方です。[142] クリミアがロシア帝国の領土となった際、ロシア人がクリミアに定住し始め、ロシア化が始まりました。この歴史によりクリミアに対する支配的なイメージはロシア中心です。クリミアは未だにロシア帝国時代の象徴としてとらえられ、タタール人はトルコの操り人形であると誤って表現されがちです。[143] 第二章でみてきたようにロシアとしてのソビエト民族政策は意図的にロシア帝政時代の神話を利用してきました。1990年代におけるクリミアでのロシア人の民族運動はセヴァストポリ神話を歴史的正当化に結びつけて利用しました。クリミアのロシア人は彼らのアイデンティティーを栄光あるロシアの歴史とロシア自身に関連づけています。
クリミア・タタール人の歴史家は彼らの起源がクリミアにおける土着の民族集団として認識されるようにするため、モンゴル以前であることを強調します。ロシア人の見解とは異なりタタール人は1783年のロシア帝国への併合は国民的災難であったとしています。20世紀までに40万人のタタール人がクリミア半島からオスマン帝国へと移住しました。クリミア・タタール人のアイデンティティーは20世紀に作られたものです。20世紀初頭、彼らの民族意識は発達し、その故郷としての帰属意識はオスマン帝国という政治的なものからクリミア半島という領域的なものへと変遷しました。[144]第二章で議論したように、1920年代におけるソビエト連邦の土着化政策は民族的、領域的なアイデンティティーの形成へ貢献しました。 その際にソビエト政府は自治の地位をクリミア・タタール人へ与えました。この由来のためにタタール人はソビエト連邦崩壊以来土着の民族集団として認識させることを懸命に試みています。
強制移住させられたタタール人はゴルバチョフ政権のソビエト末期にクリミア半島へ帰還し始めました。[145]約3万人のクリミア・タタール人が1980年代後半にクリミア半島に帰還しました。[146] 1990年代、クリミア・タタール人は政治的によく組織されました。1991年6月、第二回クリルタイがシンフェロポリで開催され、メジュリスというクリミア・タタール人の唯一の合法的代表組織がクリミア・タタール人の国家主権を宣言しました。[147]
1917年、フルシェーウシクィイによって率いられたウクライナ人民共和国中央ラーダによる第三回ウニヴェルサールはウクライナの領域にクリミアを含みませんでしたが、20世紀初頭の当時クリミア半島には数多くのウクライナ語の話者がクリミアに住んでいました。[148] 1897年のロシア帝国での第一回国勢調査によるとタウリダにおける42%の人口はウクライナ語の話者でした。[149]タタール人のようにウクライナ人は追放や強制移住のようなロシア帝国とソビエト連邦の政策の影響を受けました。 そして1954年のクリミアの統治権の移管後初めてクリミア半島はウクライナ政府によって統治されることになりました。それ以来クリミアはウクライナ人によって統治されているにもかかわらず、歴史的観点からロシア人やタタール人と比べた場合、ウクライナ人のクリミアに対する思い入れは弱いように思えます。しかしウクライナ独立以来クリミアに対して最も強いウクライナ人の影響力はクリミアではなく中央政府のあるキエフにあります。
各民族集団は各々の歴史と思い入れがあります。クリミアは深いロシア化を経験した一方でタタール人は彼らの由来を土着化政策が実行されたソビエト初期の時代にみています。どのようにウクライナ政府が多数のロシア人とその他の民族との間でバランスを維持していくのかという民族問題はソビエト連邦崩壊後のクリミアでの政治的流動化をもたらす重要な基礎となりました。

[139] Sharapov, K. (2003). p.42
[140] State Statistics Committee of Ukraine. (2003). National composition of population: Autonomous Republic of Crimea.
[141] State Statistics Committee of Ukraine. (2003). Linguistic composition of the population: Autonomous Republic of Crimea.
[142] Plokhy, S. (2000). p.371
[143] Sasse, G. (2007). p.68
[144] Ibid, 74-76
[145] Kuzio, T. (2007). p.105
[146] Bowring, B. (2002). p.62
[147] Sharapov, K. (2003). p.44
[148] Kuzio, T. (2007). p.100
[149] Sasse, G. (2007). p.79

2012年2月25日

4.1.2 ソビエト連邦支配下の自治権

自治ソビエト社会主義共和国の地位は最も重要な政治集団から支持を取り付けるための民族政策上の一手段でした。ソビエト連邦では多くの自治単位が民族的、文化的、社会・経済的に非常に雑多な状態で構成されていました。自治ソビエト社会主義共和国では独自の憲法を定めることが許されていましたが、その憲法はソビエト連邦の憲法の内容を遵守しなければなりませんでした。自治単位は行政および文化的な政策においてほとんど権限を有しませんでした。クリミアの地位はソビエト時代に幾度も変更されました。1945年にクリミアの地位はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治ソビエト社会主義共和国から地方行政区分のへ、1954年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の州、1991年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の自治ソビエト社会主義共和国へと変更されました。1921年11月10日に採択されたクリミア憲法の下では、ロシア語とタタール語はふたつの国語と定義され、クリミア・タタール人は最も重要な民族集団であるとみなされました。ソビエト連邦の民族政策が土着化に結果として比較的寛容であった1920年代、クリミア・タタール人はクリミアの政治機構における主要な地位を享受しました。しかし1930年代のスターリンの台頭と共に粛正の時代と強制的な集団農場化は3万5千人から4万人ものタタール人のシベリアへの強制移住を引き起こしました。その一方で大量のスラブ人のクリミアへの植民がソビエト連邦の政策によって行われました。タタール人は飢饉、政治的弾圧、ロシア化をこの時代に経験しました。[135] タタール語はキリル文字での表記へと変更されました。1944年のクリミア・タタール人の追放は1945年6月30日のクリミアの自治ソビエト社会主義共和国からロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内のひとつの州への降格という結果となりました。クリミア半島は第二次世界大戦後の大量のロシア人の入植と共に継続的なロシア化を経験しました。その多くの入植者たちはソビエト連邦の軍事関係者でした。[136]1954年にクリミアの統治権はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管されました。 この出来事はしばしばウクライナ・ソビエト社会主義共和国への「フルシチョフの贈り物」やウクライナコサックをロシアへと統合した1654年の「ペレヤスラフ条約300周年記念」と呼ばれています。しかしなぜクリミアの行政権が移管されたのかという決定的な理由は確かではありません。[137]この統治権移管の現在のクリミア半島の地位とウクライナへの影響は重要です。クリミア半島の統治権移管をもって今日のウクライナの国境線形成が完成しました。そしてソビエト連邦崩壊後にロシアとウクライナにおける深刻な問題となりました。統治権が移管された当時は誰もソビエト連邦が崩壊することを予想はできなかったでしょう。 クリミア半島の地位に関する議論はそれ自体新しいものではなく、ロシア革命後とソビエト初期における問題に当時すでになっていたのです。[138]
クリミアの歴史はクリミアの複雑な状況の起源を教えてくれます。第一にクリミアはロシア化されて土着の住民であるタタール人は18世紀のロシア帝国のクリミア半島併合以来困難な状況に置かれてきました。第二にセヴァストポリクリミア戦争以来ロシア人にとって特別なイメージを与えていることです。第三にクリミアはロシア革命時にはすでに多様な民族構成であったことです。各民族集団がそれぞれの独立国家を樹立しようとしていましたが、クリミアの自治という地位は初期のソビエト政権よって確立されたのです。既成事実としてクリミアに自治権が存在したことはソビエト連邦崩壊後に再び自治権を付与することを受け入れる土壌ができていたかもしれません。この既成事実はコーネルの指摘する第二の点を緩和することができるでしょう。最終的にクリミアは1954年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ移管されて歴史上初めてウクライナの一部となりました。ウクライナ人はそれまでにもクリミア半島に住んではいましたが、近代史を見る限りではクリミアの歴史的由来は深くロシアにあるのです。このロシア的由来は1990年代の政治的流動化の決定的な起源となったのです。

[135] Ibid. pp.90-95
[136] Kuzio, T. (2007). pp.102-103
[137] Sasse, G. (2007). pp.95-101
[138] Sasse, G. (2002). p.79

2012年2月24日

4.1.1 クリミア・ハンとロシア帝国

トルコ語系の言語を話すムスリムはバトゥ・ハンのモンゴル軍隊と共に13世紀にクリミア半島にやってきました。彼らはタタール人と呼ばれてクリミア半島を5世紀にわたって支配しました。[130]クリミア・ハンは15世紀に設立され、チンギス・ハンの末裔を名乗りました。しかし彼らはクリミア半島に住んでいた土着のヨーロッパ系の民族集団 に同化しました。クリミア・ハンはイスラム法、伝統的タタール法、オスマン法の組み合わせに基づいた法体系に従い、16世紀から17世紀にかけてオスマン帝国の影響下でのクリミア半島で重要な国家となりました。1793年、クリミア半島はエカチェリーナ二世のロシア帝国に併合されました。[131] この段階でクリミアの勢力圏ははオスマン・トルコからロシアの影響下へと変遷しました。
1854年、クリミアはクリミア戦争の戦場となりました。トルコとその同盟国である英国とフランスはクリミア半島へ侵攻しセヴァストポリを包囲しました。最終的にロシアの艦隊はセヴァストポリの港を明け渡すことを余儀なくされてセヴァストポリ港を失いました。しかしセヴァストポリはロシア帝国を戦争での即時的な敗北から守った唯一の要因となりました。よってこのセヴァストポリという町はロシア人の間で英雄的な地位を獲得してその物語はセヴァストポリ神話となりました。[132] ロシア支配の重要な影響のひとつとしてクリミア半島における民族構成の変化があげられます。数多くのタタール人が続々とクリミア半島を離れた一方でロシア人とウクライナ人がクリミア半島に入植しました。トルコはタタール人にとっての主要な移住先となりました。黒海艦隊の建設はロシア帝国領からの入植に拍車をかけました。ウクライナ革命の間クリミアは自治的な地位を短命に終わったヘトマン政権より与えられました。タタール人の民族組織はクリミアの独立運動を展開しました。第一回クリルタイという部族の指導者による議会が1917年12月にバクチサライで開催された一方でボルシェビキはクリミア・ソビエトを樹立しました。1919年よりクリミア半島は徐々にボルシェビキの支配下になっていきました。1921年10月18日にクリミア・自治ソビエト社会主義共和国(ASSR)はロシア内の一自治共和国とセヴァストポリとイェヴパトリアを直轄地としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へと併合されました。[133] ロシア革命後、タタール人、ウクライナ人、白軍、赤軍がそれぞれの国家を樹立しようとしていました。独立国家樹立のためウクライナ人とタタール人は1918年に反ボルシェビキでの闘争のためにドイツと共闘しました。[134]


[130] Reid, A. (1997). p.175
[131] Uehling, G. L. (2002). The Crimean Tatars.
[132] Plokhy, S. (2000). p.374.
[133] Kuzio, T. (2007). pp.99-102
[134] Sasse, G. (2007). p.86

4.1 クリミアの歴史:タタール人とロシア人のオリエンテーション

独立したウクライナは歴史上ソビエト連邦崩壊後にのみ存在しています。それはウクライナが他国によって支配されてきたことを意味します。クリミアの歴史はロシア人、クリミアタタール人、ウクライナ人に代表される多様な民族によって構成されています。この節では1990年代の政治情勢の流動化に対する歴史的影響を調べます。

2012年2月23日

4 ウクライナとロシア人マイノリティーの間でのクリミア自治権

クリミア半島はウクライナ政府がクリミア自治共和国としての自治権を与えているウクライナにおける唯一の地方です。クリミアの歴史は多様な帝国によって構成されております。クリミアは20世紀前半はロシア帝国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国によって支配され、1954年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと統治権が移管されました。その戦略的重要性と複雑な民族構成のため、1954年の国境の変更は独立以来領土問題、特にロシアとに関する問題を引き起こしました。第四章は1954年の移管の現在のウクライナへの影響を調査するためにクリミア自治権の地位に焦点を当てます。ソビエト連邦崩壊は悲劇的な地域紛争を世界中で引き起こしました。クリミアは旧ソビエト領土のおけるそれらの一つになっていたかもしれません。自治という地位は地域紛争の解決手段として用いられがちな一方でそれは状況を悪化させる潜在的なリスクを含んでいます。コーネルは以下のようにこの危険因子について述べています。
中央政府はいくつかの理由のためほぼ普遍的に自治権の要求に応じることを渋ります。まず第一に彼らは自治権の少数民族への付与は結果的に起こりうる地域の脱退への第一段階なりうることです。第二に自治権のある地域への付与は他の住民や集団に対する差別として受け止められる可能性があることです。第三に自治権は特定の少数民族と関連のある外国による介入リスクを増加させることです。[128]
コーネルによると「自治権」という用語を「国家による、名義上の民族集団の多数派住民との違いによる理由で国家から分離することなく特別な地位と権利、自身の政府機関をもつことが法的に付与された定義された領域である。」[129] クリミアの場合、ロシア人とタタール人が名義上の民族集団でありウクライナが国家となります。
クリミアが現在自治権をすでに保持している事実を考慮すると上記の3つのリスクを相殺している何らかの理由があるはずです。第四章では歴史的視点からクリミア自治のケースにおいてこの3つリスクを緩和する理由を調査します。いったい自治権の付与という地位はクリミアにとってよい解決手段なのでしょうか。第四章は以下のような問いにも回答します。ソビエト連邦崩壊後3つのリスクにもかかわらずクリミアはどのようにして新しい独立国家ウクライナに統合されていったのだろうか?クリミア自治は中央政府へどのような影響を及ぼしたのだろうか?これらの問いに回答を与えるため、第四章はクリミアの歴史、民族構成、ソビエト連邦崩壊後のクリミアの地位、ロシアや 欧州安全保障協力機構(OSCE)などの関与を取り扱います。

[128] Cornell, S. E. (2002a). pp.246-247
[129] Cornell, S. E. (2002b). pp.8-9

2012年2月22日

3.8 第三章まとめ:ウクライナ・ポーランド関係史

ウクライナ民族主義者が独立国家樹立のために奮闘していた時、西ウクライナは両大戦の間ポーランドによって支配されました。ポーランド人がウクライナ人の独立運動を弾圧した事実はウクライナのナショナリズムが存在していた状況において反ポーランド感情を増加させました。戦争の結果西ウクライナにおける知識人の損失と両大戦間に醸造された反ポーランド感情は第二次世界大戦中の民族浄化に対して決定的な影響を与えました。よってユダヤ人がすでに撲滅されていたヴォルィーニ地方ではウクライナ民族主義者による政治組織はパルチザンへとなってしまい、OUNバンデラ派UPAによる民族浄化を止めることはできませんでした。
戦後、カーゾン線はポーランドから東ガリツィアを奪い、ポーランドは旧ドイツ領であった回復領を手に入れました。国境線変更の決定的な特徴はポーランドの共産主義政権は計画的なドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人の大規模な人口再配置という民族的な外科手術を強行した結果、民族的に均質な国家を作り上げることになりました。民族浄化であるヴィスワ作戦は国家によって仕組まれたプログラムだったのです。
国境地方におけるポーランド人とウクライナ人のナショナリズムに基づいた対立は民族浄化という結果になりました。しかし、現在から当時を振り返ってみるとヴォルィーニ大虐殺とヴィスワ作戦には違いがあります。ヴィスワ作戦はポーランドの共産主義政権によって実行されました。よって今日の民主政権下のポーランド人は当時の共産主義政権を容易に非難できるためウクライナ人に対してヴィスワ作戦での強制再定住を謝罪することができます。一方でヴォルィーニ大虐殺はパルチザンによって実行され、彼らは国家によってコントロールされていたわけではありません。一部のウクライナ人は彼らをウクライナ独立のために戦った英雄と見なしています。
国境線変更は国境地方における民族対立と民族浄化という結果になりました。これらの変えることのできない事実はソビエト連邦崩壊後のポーランド及びウクライナ両国の国家建設の土台を崩すものでした。これは1990年代におけるポーランドとウクライナの問題の背景にある最も深刻な理由となっています。
20世紀中にポーランドとウクライナの間で発生した一連の出来事は密接に関係しています。一方で1990年代の両国の政権は報復的措置をとることを控えました。和解の政策が両国の国家建設への道を開き、両国の関係を停滞させる困難な記憶よりも和解政策を優先させるために指導者たちは歴史の教訓から学んだのです。一方で困難な歴史は忘れ去られてはいけません。未だに困難な過去に関するポーランドとウクライナの物議を醸す議論が存在しています。一例として退任の決まっていたウクライナの大統領ユーシェンコによる2010年1月22日のステパン・バンデラ叙勲による名誉回復です。しかし一方でユーシェンコは2003年にはポーランド人に対して第二次世界大戦時の出来事について許しを乞うていました。[126]よってこのバンデラの叙勲はウクライナ東部だけではなくポーランド人からの抗議を誘発しました。[127] たとえ結論に達することができなくても過去が両国の関係の妨げとならないように、ポーランドとウクライナは将来にわたって困難な過去を議論していかなければなりません。

[126] Polonsky, A. (2004-2005b). pp.298-299
[127] Levy, C. (2010, 03 01). ‘Hero of Ukraine’ Splits Nation, Inside and Out, Cienski, J. (2010, 03 02). Why Poles cheered Yushchenko's ouster: 20th century Ukrainian nationalist Stepan Bandera still divides Poland and Ukraine.

2012年2月21日

3.7 1990年代の歴史認識の不一致と和解

ポーランド第三共和国と独立ウクライナは1990年代初頭に両国の関係を構築させ始めた時、この章で見てきた民族浄化について議論することは不可避でした。
ポーランドとウクライナの代表団によって戦争中の出来事が議論された最初の会合は1990年5月に開催され、その会合は両国の和解へ道を開くはずでした。[116]1991年にポーランドの法務大臣はUPAによるヴォルィーニ大虐殺人道に対する犯罪であるとして非難されるべきであると提案しました。この提案はUPAを誇りに思うウクライナの民族活動家によって拒否されました。一方でポーランドに居住するウクライナ人は戦後の強制再定住に対する法的な保証を求めました。この要求に対して民主化されたポーランド政府は1947年に共産主義政権によって実行されたヴィスワ作戦について謝罪しました。民主的なポーランドの上院は1990年にウクライナに対して1947年の民族浄化を容易に謝罪することができた一方、ウクライナは1990年6月にポーランドに対して1943年の民族浄化を謝罪することはできませんでした。当時ポーランド大統領であったヤルゼルスキは1947年のヴィスワ作戦に参加した将校のひとりでした。[117] ウクライナ・ソビエト社会主義共和国においてウクライナ民族主義者組織(OUN)とUPA活動家はブルジョワ民族主義者とナチスの協力者としてみなされました。そしてソビエト連邦崩壊後は対照的に、主に西ウクライナ出身の急進的な右派と中道右派の政党はOUNとUPAを英雄的な組織でありウクライナ国家における不可欠な部分として美化しました。UPAがウクライナ内でどのようにとらえられるのかは物議を醸す問題でした。[118]
この不一致について、スナイダーは以下の論理的な問題を指摘しています。ヴィスワ作戦は共産主義者によって実行されましたが、1990年代の民主化されたポーランド政権には共産主義者は政権にはいないため容易にポーランド人によって非難されることができました。その一方でヴォルィーニ大虐殺はウクライナ樹立を望んでいた民族主義者によって実行されました。1990年代の独立国家ウクライナで指導的役割を担っていた民族活動家にとって戦時中の民族主義者を非難することは容易なことではありませんでした。[119]
和解の難しさに直面して1990年代半ばにポーランドで1918年から1947年の歴史を共有することを試みる共同プロジェクトが組織されました。ポーランド人とウクライナ人の歴史家がそれぞれの解釈を交換してポーランドとウクライナとの間の相違を積み上げた「ポーランドとウクライナ:困難な問題」という一連の論文を出版しました。プロジェクトの結果は両者が歩み寄ることができないという論争を明らかにしたことです。[120]
1992年5月のポーランド・ウクライナ条約はポーランドがウクライナにとってより重要なパートナーであることをウクライナに納得させるものでしたが、1940年代の論争は避けた内容になりました。この条約はどのように歴史的論争が異なった見解を表しているのかを露呈させました。1993年と1994年の両者の問題となっている論争においての関係は宙に浮いた状態でした。1995年からウクライナ大統領のクチマとポーランド大統領のクワシニェフスキは公式なウクライナ・ポーランドの歴史的和解を組織しました。この先導は1997年5月にキエフで締結された和解宣言をもたらしました。その宣言はヴォルィーニ大虐殺とヴィスワ作戦を含むポーランド人とウクライナ人の両者によって行われた過ちを明記した内容となり、互いに許しあうことを訴えました。1918年から1919年にかけての西ウクライナ・ポーランド戦争で従軍したポーランド人兵士が埋葬されているリヴィフの墓地と1940年代にウクライナ人が投獄されていたポーランド・ヤヴォジュノの強制収容所を含む歴史的に重要な場所を両国の大統領は訪問しました。[121]
1997年の和解宣言に対する両国の世論の反応はこの政治的決断を熱狂的に支持するものではありませんでした。ポーランドではヴォルィーニ大虐殺が適切に強調されていないという世論のため和解宣言は冷ややかに受け止められました。ウクライナでの和解宣言に対する沈黙は西ウクライナ以外の地域での世論がこの問題に対して取るに足らないということを説明しました。ウクライナにおけるポーランドのイメージは肯定的であるのに対してポーランドにおけるウクライナのイメージは否定的でした。[122] 1990年代後半、ポーランド人の記憶はヴィスワ作戦をヴォルィーニ大虐殺に結びつけており、ポーランドの世論は他のどの隣国よりもウクライナを恐れていました。[123] ポーランドではヴォルィーニ大虐殺は国民的問題であった一方でウクライナでは主に西ウクライナとキエフ出身の知識人によって議論される問題でした。[124] 和解宣言とそれぞれの出来事自身に対する両国の態度には政府と世論の間に温度差があったのです。
政治的な見地からすると両国の政府は将来にわたって困難な過去を議論し続けるべきであるが、困難な過去を政治の舞台裏へ持って行く必要がありました。ウクライナが1990年代に国家建設に奮闘していた一方でポーランドは国家の利益は歴史的な不一致よりも優先されるという欧州的規範に基づいてウクライナとよい関係を築くことを努めました。ポーランドはEUやNATOなどの西側の機関へ統合される準備の整った成熟した国家であるということを西側諸国に認識させるため、ポーランドは堅実に中立的な立場に立ちました。[125]
政治的利益のために両国の政府は合意に達することのできない困難な歴史よりも政治的和解に優先権を与えました。政治が和解に道を開くかもしれない現実的な立ち位置に足をとどめたことは注目に値すべきことです。

[116] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.37
[117] Snyder, T. (2003a). pp.262-263
[118] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.41
[119] Snyder, T. (2003a). p.263
[120] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.44
[121] Snyder, T. (2003a). pp.264,287
[122] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). pp.44-46
[123] Snyder, T. (1999). p.116
[124] Kasianov, G. (2006). pp.251-252
[125] Snyder, T. (2002). p.57

2012年2月20日

3.6 歴史の加速

ベルリンの壁崩壊3ヶ月ほど前の1989年8月、中央・東ヨーロッパで共産主義支配の開始以来初めての非共産主義政権がポーランドで独立自主管理労働組合連帯(NSZZ)の運動の結果、樹立されました。このことはヨーロッパの歴史を加速させる出発点となりました。20世紀末のソビエト連邦崩壊は旧ソビエト諸国とそのヨーロッパの衛星国に劇的変化をもたらしました。民主化はスターリンによって画定された国境に関する議論や疑問と国家間の関係を再考する議論を開始させました。ポーランド・ウクライナ関係も例外ではありませんでした。民主化されたポーランドは1990年代の変遷の時代において重要な役割を担いました。
連帯の指導者によって構成されたポーランドの非共産主義政権は「クルチュラ」という影響力ある亡命ポーランド人の雑誌の意を受けた確固とした基本戦略がありました。ポーランドは戦前の第二共和国時代の国境を主張すべきでないことポーランドの東に位置するソビエト構成共和国の独立を支持すべきであるという「クルチュラ」の思想に従って、ポーランドは1990年代にその新しい国家の存在を保証するために東の隣人(リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ)に対して最高の敬意を払いました。[111] ポーランド史において、伝統主義者という立場に対するジェズィ・ジェドロィツによって練られたクルチュラの思想は修正主義者として分類されています。[112]
国境に関して、ポーランドとドイツが第二次世界大戦後にそれぞれの東の領土を失うことになった西へのポーランド領土の移動は未解決の問題でした。ドイツ再統一の予兆を目前にした民主的なポーランド政府はドイツが戦後に失われた領土を要求してくることを恐れてドイツ統一を支持しませんでした。しかし結局ポーランドは9箇条の保証として米国から現在の国境線を維持するという保証を取り付けて、最終的にはオーデル・ナイセ線をポーランド・ドイツ国境とすることを確認するポーランド・ドイツ国境条約を1990年11月14日に締結しました。ポーランド人がドイツ人の領土に関する要求を恐れたように、ウクライナ人もまたソビエト連邦崩壊後にポーランド人が東ガリツィアの支配権を主張してくることを恐れました。1990年10月にポーランドは西ウクライナにおける領土の要求を控えることをポーランド・ドイツ国境条約締結以前にウクライナに対して保証しました。[113]
この過程において、ベルリンの壁崩壊後にドイツとポーランドの両者がそれぞれの失われた領土に関する要求を控えたという首尾一貫した枠組みが作用していることがわかります。戦前の第二共和国が採用し、1990年代にはユーゴスラビアのように他の諸国が利用した民族主義的なアプローチからポーランドは距離を置いたのです。
1990年10月13日キエフでポーランドは「ポーランド・ウクライナ関係の発展における基礎と基本的方向に関する宣言」という国家間の宣言をウクライナ・ソビエト社会主義共和国と締結しました。その宣言は不可侵の保証、現在の国境線の維持、両者における少数民族の文化的権利を取り決めました。[114] 米国の不賛成にもかかわらず、1991年12月の国民投票によって決定したウクライナの独立をポーランドは公式承認した最初の国となりました。ウクライナ独立に際して連帯の活動家とウクライナの民族活動を行っていたルクとの間にはあまり公式の交流はありませんでしたが、ポーランドの融和的なアプローチはルクに世論を勝ち取る広い訴えと共に中道の運動を保持させることとなり、結局それはソビエト支配の終焉という結果になりました。ポーランドの東方政策は平和的な独立の達成を導いたウクライナの市民概念を間接的に下支えしたのです。[115]

[111] Wolczuk, K., & Wolczuk, R. (2002). p.36, Snyder, T. (2005). p.251
[112] Copsey, N. (2008). p.540
[113] Snyder, T. (2003a). pp.235-237, 245
[114] Burant, S. R. (1993). p.409
[115] Snyder, T. (2003a). pp.242-243

2012年2月19日

3.5 ウクライナ人追放とヴィスワ作戦

国境線変更の結果ポーランド人とドイツ人だけではなくポーランドに住んでいたウクライナ人も強制的な移住を強いられました。ソビエト連邦崩壊まで独立国家を持たなかったウクライナ人はより不利な立場に置かれました。追放はソビエト連邦が戦後強い影響を及ぼしていたポーランドの共産主義政府によって計画、実行されました。.
1944年ポーランド国民解放委員会とソビエト構成共和国との間における再定住の合意に基づいて、ウクライナ人のポーランド領からの再定住が開始しました。その再定住は初期段階においては自発的に行われました。例えばポーランドとチェコスロバキア国境におけるレムコもしくはルシンと呼ばれる主要な少数民族は、ロシアに対して友好的で経済的に貧しい状況であっことが彼らをウクライナ東部へ再定住させることになりました。共産主義プロパガンダは彼らに訴えましたが、東部の現実は貧窮しており、彼らを受け入れるソビエト当局は十分準備ができていませんでした。1945年にポーランド政府がウクライナ人に新しいポーランドの領土から退去することを強制し始めた時、再定住は追放になりました。ウクライナ人は追放に反対し、ウクライナ蜂起軍(UPA)は抵抗運動において主要な役割を果たしました。ポーランド政府とUPAの暴力を伴った対立は1945年には内戦の様相を帯びてきました。[105] 当時ウクライナ人の追放はポーランド政府だけではなく大国特にソビエト当局によって承認されていました。[106]ポーランド政府がUPAと戦っていた一方でウクライナ人はウクライナ東部へと送還されていました。この送還がUPAの抵抗運動を下火へと追いやりました。結局1946年8月にポーランド政府はウクライナ人の再定住が完了したと宣言しました。1946年8月1日までに追放されたウクライナ人の数は482,500人にのぼりました。[107]しかし当時すべてのウクライナ人がポーランドから取り除かれたわけではありませんでした。
スペイン内戦の英雄であったカロル・スヴィェルチェフスキ将軍が1947年3月28日のUPAによる攻撃によって殺害された後、UPAを滅亡させるための軍事作戦がポーランド政府によって許可されました。その軍事作戦はヴィスワ作戦と呼ばれてUPAの完全なる撲滅とポーランド領内のウクライナ人を西部の回復領へ追放することを目的としていました。ヴィスワ作戦はソビエト連邦とチェコスロバキアによって援助されていました。1947年4月28日から7月31日にかけて14万人のウクライナ人が西部回復領へと再定住させられたといわれています。彼らはポーランド国境から100キロメートル以内もしくは海岸から50キロメートル以内に住むことは禁止されました。ひとつの場所にはたった2,3家族だけが定住することができました。[108] さらに彼らは故郷に帰ることは許されず、移動が厳格に制限されていました。[109]
戦後のウクライナ人の追放はポーランドにおけるウクライナ人の除去が熟慮して計画・組織されたことを表しています。最初にポーランド政府は武力でウクライナ人をウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと追放しました。そしてウクライナ人の数がある水準へと低下するとポーランド政府は残ったウクライナ人をポーランド西部で同化することを強制しました。その時追放がポーランドで広く実行されて、ウクライナが独立国家でないことによってUPAが非合法組織とみなされていた事実はポーランド政府がヴィスワ作戦を実行に移すことを容易にしました。ポーランド人はウクライナ人よりも有利な状況にあったのです。これによって民族的に純度の高いポーランドが歴史上初めて生まれたのです。民族浄化としての追放における顕著な特徴はポーランド政府が戦後のどさくさに紛れて追放の主要な役割を果たしたことです。追放は国家によって後援された民族浄化だったのです。ソビエト崩壊後、民主的なポーランド政府はヴィスワ作戦を非人道的な行いとして非難していますが、ヴィスワ作戦は今日においてポーランド人とウクライナ人の関係に影を落としています。[110]

[105] Subtelny, O. (2001). pp.157-160
[106] Jasiak, M. (2001). p.175
[107] Ibid. (2001). p.181
[108] Subtelny, O. (2001). pp.166-168
[109] Kisielowska-Lipman, M. (2002). p.139
[110] Jasiak, M. (2001). p.190

2012年2月18日

3.4 第二次世界大戦後の国境線変更

戦後のポーランド・ソビエト国境に関する決定的な事項がソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリスによって大戦中の1943年の暮れのテヘラン会談で議論されました。戦後の新しい国境線はかつて英国外相カーゾン卿が1920年7月にソビエト連邦へ提案した線に従いました。一度ボルシェビキによって拒否されたその線は「カーゾン線」と呼ばれています。カーゾン線の特徴は東ガリツィア地方がソビエト連邦領となっており、その線はラヴァ・ルスカの西とプシェミシルの東を通過してカルパチア山脈へと向かうものでした。[98] 当時、赤軍が東部戦線における対ドイツ戦で主要な役割を担っており、アメリカ合衆国と英国は自身を東部戦線で危険に晒したくなかったため、ソビエト連邦はこの議題で有利に立っていました。よってカーゾン線は最終的に1945年2月のヤルタ会談で合意に至りました。さらにポーランドが東部国境で領土を失う代わりにその西部のドイツ領を割譲されることになりました。このポーランドの回復領は産業的に発展した沿岸地域でした。この意志決定過程においてポーランド側の代表はこの議題に参加していませんでした。[99] 国境は大国である連合国によって決定してポーランドはその領土がおよそ240キロメートルほど西に移動することを強いられました。これにより現在のポーランド・ウクライナ国境が完成したのです。さらにウクライナ人が居住するブコビナ北部とトランスカルパチア地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと割譲されました。結局ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は領土で四分の一で1100万人もの人口を手に入れることになりました。近代史上初めてすべての民族的なウクライナ人の領域がウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み込まれました。[100]
ポーランド人の大多数は大国の決定はカーゾン線に反対しました。それは新しいソビエト領に住んでいる4百万人ものポーランド人に影響するためでした。彼らはソビエト市民としてその場に住み続けるかポーランド回復領へ移住するのかを決断しなければなりませんでした。親ソビエト派のポーランド国民解放委員会(PKWN)とポーランド政府は人々にポーランド側へ移住することを強く奨励しました。多くのポーランド人が投獄、中央アジアやシベリアへの送還、差別、ソビエト支配化でのウクライナ化やリトアニア化を恐れて自発的に移住しました。1944年から1948年にかけて1,517,983人ものかつてのポーランド市民が公式に新しいポーランドへと移住しました。[101]戦後、1945年8月のポツダム合意に基づいたドイツ人の追放は大国とポーランド政府によって 実行されました。[102]この移住計画は1650万人に影響しました。1946年2月14日のポーランドと英国の統合本国送還執行部の代表による二国間本国送還合意の結果、ポーランドにおけるオーデル・ナイセ線の東側のドイツ人の数は5,057,000人にもおよびました。[103] 西側諸国は民族に基づいた再定住は当時の受容される道徳的規範とは矛盾しないと考えました。彼らは強制的な移住は国内的、国際的な紛争を取り除くことができるだろうと期待しました。[104]

[98] Davies, N. (1981). p.504
[99] Davies, N. (1984). pp.75-81
[100] Yekelchyk, S. (2007). pp.147, 151
[101] Kochanowski, J. (2001). pp.137-140
[102] Jankowiak, S. (2001). pp.87-88
[103] Davies, N. (1981). p.563
[104] Kersten, K. (2001). p.77

2012年2月17日

3.3 ウクライナ民族主義者とヴォルィーニ大虐殺

1939年の第二次世界大戦の勃発はポーランド第二共和国に終焉をもたらしました。この大戦中、ナチスドイツとソビエト連邦は西ウクライナを占領しました。彼らは地域社会を破壊して地元の住民(特にエリート層)は追放や殺害されました。前述のとおり、ポーランド人とユダヤ人は西ウクライナにおいて豊 かな階級の大部分を構成していました。ソビエト連邦は少なくとも25万人ものポーランド人と10万人ものポーランド第二共和国におけるその他の民族(主に ユダヤ人)をソビエト連邦の僻地へと追放しました。[91] 西ウクライナでは約2万人のポーランド人がシベリアへ追放されて何万ものポーランド人がナチスドイツによるポーランド占領地域であるポーランド総督府へと逃れました。[92] ナチスドイツとソビエト連邦はポーランド人とウクライナ人にとっての敵でしたが、その中でウクライナ民族主義者はドイツ人をウクライナ独立国家樹立を支持するかもしれない味方であると見なしていたため、ナチスドイツへ協力する動機がありました。ナチスドイツ支配下で多くの若いウクライナ人がナチスの補助警察(Hilfspolizei)として西ウクライナにおけるユダヤ人問題の最終的解決に加担しました。1941年には既にソビエト連邦によって西ウクライナのエリート層が破壊されていたため、ポーランド、ウクライナの両政治勢力はもはや政治機関の形をなしておらず、むしろパルチザンのような軍事組織と化していました。[93]
ナチスドイツはウクライナをガリツィア地方を含むポーランド総督府(Generalgouvernement)とヴォルィーニ地方を含むウクライナ兵站部(Reichskommissariat Ukraine)という二つの行政単位に分割しました。よってドイツ人はウクライナ民族主義者たちが切望していた将来のウクライナ国家という意味でのウクライナ占領地域をひとつの行政単位にすることはしませんでした。最終的にはナチス当局はウクライナ民族主義者を投獄しました。[94]
ウクライナでは公式な軍隊をコントロールする国はありませんでした。戦時中にウクライナの政党が解した後、ガリツィア地方の西ウクライナ・ポーランド戦争の退役軍人たちによって組織されたウクライナ民族主義者組織(OUN)が西ウクライナにおける唯一の政治組織でした。1941年、ウクライナ民族主義者組織はOUNバンデラ派とOUNメリニク派の二つの派閥に分離しました。OUNメリニク派はより穏健で教養のある派閥で武装親衛隊ガリツィエンとしてナチスドイツを幇助していました。一方OUNバンデラ派はステパン・バンデラに よって率いられた若い世代によって構成された派閥でナチスドイツとソビエト連邦への闘争とウクライナにおけるすべてのポーランド人を浄化することを目的としていました。1941年OUNバンデラ派は両派閥闘争の結果、指導的な民族主義者組織となりました。彼らはどうやら戦争はドイツとソビエトの両者が消耗 することで終結し、多くの構成員が西ウクライナ・ポーランド戦争を経験して1930年代にポーランド人によって投獄されていたため、ポーランドが最終的な敵となると考えていたようです。1943年OUNバンデラ派はその軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)を 組織してUPAはヴォルィーニ地方を支配下におきました。彼らはポーランド人の殺害と追放を始めました。ヴォルィーニ地方で大量虐殺を実行したウクライナ人のパルチザンはその前年にホロコーストに加担していたためにどのように大量殺戮を実行すればよいのかを知っていました。1939年から1943年にかけてヴォルィーニ地方のポーランド人は約40万人から20万人へと半減しました。約2千人のUPA構成員とウクライナ人の小作人によって行われた多くの攻撃は1943年の3月から4月、7月から8月、そして12月末に行われました。1944年7月にブロディで武装親衛隊ガリツィエンがソビエト赤軍によって破られると、故郷を去らなかった多くのOUNメリニク派の戦闘員はOUNバンデラ派とUPAへと合流しました。[95]
ポーランド人へのUPAによる攻撃に直面して、ポーランド国内軍(AK)の ようなポーランド人によるパルチザンUPAに対して報復的な手段を行使しました。このウクライナ人への報復はロンドンのポーランド亡命政府が予期していたことではありませんでした。ポーランドパルチザンは重要なウクライナ人とウクライナ人の村へ放火しました。ポーランド国内軍はヴォルィーニ地方と東ガリツィア地方を支配化に置くための民族蜂起としてブルザ作戦を指揮しました。彼らはドイツ人とUPAに対して抵抗しソビエトの再占領後の赤軍に よって解体されました。[96] ポーランドの国家記憶院(IPN)の先任者はルブリン地方でのポーランド国内軍によるウクライナ人の殺害に関する二つの深刻な調査を結論づけています。そのうち最も顕著なものはサフリン(Sachryn)というフルビエシュフ(Hrubieszów)近郊でポーランド国内軍が1945年3月9日から10日の夜に数百人もの市民を殺害したことです。[97]
ナ チスドイツとソビエト連邦の両者がウクライナ民族主義者と地元民の運命に重要な影響を与えたのは明らかなことです。ヴォルィーニ地方で民族浄化に至ってし まった最も致命的な要因はナチスドイツとソビエト連邦によって行われたエリート層の破壊です。教養ある人々と理解力ある指導者なしでは軍事組織を持つ OUNバンデラ派のような政治組織は単にパルチザンや民兵組織にすぎません。さらに両世界大戦間時期におけるUPA構成員の経験がポーランド人に対して敵 対心を抱かせる動機になったという事実はヴォルィーニ大虐殺の引き金となりました。ユダヤ人問題の最終的解決への加担はまたその後の民族浄化実行を容易にすることに貢献しました。ナチスドイツとソビエト連邦の間での戦争中、ウクライナ人とポーランド人の両者のパルチザンは互いに殺し合うことになりました。

[91] Polonsky, A. (2004-2005a). p.231
[92] Snyder, T. (1999). p.93
[93] Snyder, T. (2003a). pp.156-159
[94] Snyder, T. (2003b). p.207
[95] Ibid, pp.162-170
[96] Snyder, T. (1999). pp.99-100
[97] Polonsky, A. (2004-2005b). p.287

2012年2月16日

3.2 ポーランド第二共和国における東部国境地方

第一次世界大戦後の新しいポーランドは多様な民族によって構成されてい ました。ポーランド語話者は全人口の約66%を構成し、その他の人口としては15%がウクライナ人、9%がユダヤ人、5%がベラルーシ人、2%がドイツ人 でした。ドイツ人とユダヤ人は都市部の豊かな中産階級を構成した一方、ウクライナ人とベラルーシ人は主に東部の県に居住して貧しい小作人でした。[82] 東部国境付近をみてみた場合、ウクライナ人が人口の大多数を占めていたにもかかわらず、ポーランド人は都市部における人口における最大の集団を構成してお り、社会的・経済的に豊かな地位を得ていました。[83] そのため、人口配置における状況でポーランド人は東部地方での政治的影響力を享受していました。
1918年にポーランドが独立した際、ウクライナ人も独立国家を設立しようとしていました。西ウクライナ人民共和国(ZUNR)は 1918年11月から1919年7月の9ヶ月間、ポーランドとウクライナ人民共和国の間の東ガリツィア地方に存在していました。この民族運動は完全に新し いポーランド共和国と対立していました。しかし上記の人口配置と社会的地位の状況に示されるように、ポーランド人が状況を有利に進め、最終的に西ウクライ ナ人民共和国のすべての領土を征服しました。[84] 西ウクライナ人民共和国の陥落後、その地方は社会的動揺が広がりました。ウクライナ人は東ガリツィア地方におけるポーランド共和国の主権に抵抗しましたた め、一連のテロリズムが東ガリツィア地方に広がりました。国際赤十字は1919年11月2万人のウクライナ人がポーランドの強制収容所に収容されたと報告 しています。[85]大国のひとつである英国はポーランド政府に対して東ガリツィア地方への自治が与えられるべきと要求しましたが、ポーランドはそのこと に乗り気ではありませんでした。1922年11月にポーランドが国政選挙を行った際、共産党以外のすべてのウクライナ人の政党が選挙をボイコットしまし た。 しかし大国はその選挙結果を黙認したため彼らは暗に東ガリツィア地方におけるポーランド政府の統治を認めたことになりました。[86]
1951 年、亡命ウクライナ人民共和国の勢力は合衆国国務長官への陳情書の中でポーランド統治下における状況を以下のように表現しています。ポーランド政府はウク ライナ人を民族社会として公式に認めず、ウクライナ人という名称を使用することを拒否しました。そしてポーランド政府はウクライナ人社会を消滅させる目的 でウクライナ人に対してルテニアボイコレムコフツーリシュチナポリシュフク、オーソドックスというような異なる名称を与えました。さらにポーランド政府は東ガリツィア地方の名称をその地方のウクライナ的特徴を隠すために東小ポーランドと変更しました。[87]
もうひとつの東部国境地方であるヴォルィーニ地方で は、共産主義者によって反ポーランド活動が実行され、その地方に動揺が広がりました。1938年にポーランド共産党は解体されましたが、ヴォルィーニ地方 における共産主義は1930年代を通じて広く支持されていました。1935年から1937年にかけてポーランド全体に対するヴォルィーニ地方の共産主義者 による犯罪件数の割合は11.6%から39%へと増加しました。[88]ポーランド政府は両大戦間の時代、民族主義者だけではなく共産主義者への取り締ま りに奮闘していました。
その時代、ポーランド政府は東部国境地方における主権の確立にやっきになっており、ポーランドへの脅威となりうるウ クライナ人の自治を恐れていました。「ウクライナ人の立場からすればポーランド人は旧ロシア帝国の領土内におけるウクライナ人国家建設を支持していました が、東ガリツィア地方内ではそれを望みませんでした。」[89] ポーランドの民族政策は意図的にウクライナ人の民族意識を弾圧しました。1920年代、近代化とは国家民主主義者が率いていたポーランド政府のもとウクラ イナ語話者がポーランド国家へと同化すること意味するポーランド化として理解されていました。[90]
民族自決の原則とナショナリズムに 従ってポーランドは当時多民族で構成されていた現在の西ウクライナへの主権を確立しました。複雑なポーランド東部国境に対して大国はポーランド東部国境を 定義することができず、ポーランド人は武力によって自らの国境線を画定しました。そのことは地域の民族社会に対立を引き起こすことになりました。よって両 大戦間の時代、現在の西ウクライナはポーランド人によって支配され、その強硬な民族政策によってウクライナ人の社会的状況は悪化して反ポーランド感情が醸造されました。

[82] Ibid. pp.119-120
[83] Davies, N. (1981). p.508
[84] Ibid. p.508
[85] Ukrainian Information Bureau. (1951). p.8
[86] Cienciala, A. M., & Komarnicki, T. (1984). pp.202-206
[87] Ukrainian Information Bureau. (1951). p.9
[88] Snyder, T. (2005). pp.143-145
[89] Davies, N. (1981). p.508
[90] Snyder, T. (2005). p.61

2012年2月15日

3.1 第一次世界大戦後のポーランド東部国境線

ベルサイユ条約はポーランドに西プロイセン(ポーランド回廊)を割譲してダンチヒ(今日のグダニスク)割譲を保留しましたが、ポーランド東部における境界線は定義しませんでした。三国協商国はポーランドの西部国境への承認を与えた一方で東部国境は三国協商国が東部戦線で勝利していなかったため解決されるべき問題のままでした。よって彼らは東ヨーロッパにおいて説明することができませんでした。[76]「ポーランドの国境に関するすべての決定事項は場当たり的でした。」[77] ポーランドの東部国境は不確定でした。
ポーランドの東部国境線画定に関する決定的な出来事は1919年から1920年のポーランド・ソビエト戦争でした。ボルシェビキは西方へと進軍していましたが、最終的にポーランド軍は赤軍を打ち負かし、1921年3月18日に締結されたリガ条約はポーランドとソビエト連邦の国境線を画定させました。ポーランドは戦況を有利に進めていたため、ポーランドは東部領域を満足して獲得することができました。リガ条約はポーランドの東部国境線画定において重要な役割を果たした一方で、その国境線は西欧列強には承認されていませんでした。ポーランドの国境線が列強によって承認されたとき、列強は文書に「彼らの責任において」という文言を挿入することによってポーランド・ソビエト国境に関しては責任を負わないことを表明しました。[78] 列強による承認の欠如はソビエト連邦が1939年にリガ条約を破棄することに影響を与えたかもしれません。さらにウクライナ人にとってのリガ条約の致命的な結果のひとつはポーランドがウクライナ人民共和国であるペトリューラのディレクトーリヤを支持していたにもかかわらず、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国を承認したことです。[79] これはウクライナの民族主義者たちがポーランド政府によって裏切られた瞬間でもありました。
一方でデービスが「リガ条約が効果的にリトアニア、ベラルーシ、ウクライナをその土地に住む人民の意向を確認することなく分割したことは忘れられるべきではない」と強調しています。[80]国境線画定において民族分布的な一面は考慮されることがありませんでした。 第一次世界大戦後のポーランド東部国境付近にはリトアニア人、ベラルーシ人、ウクライナ人が住んでいました。東ヨーロッパの小さな国民国家における理想的な独立とは民族自決の原則によるものでしたが、民族構成に基づいた国境線を東ヨーロッパで線引きすることはほぼ不可能な状態でした。ポーランドの東部国境はその困難さを表現するよい例であり、デービスは「1918年から1921年におけるポーランド国境の画定はヨーロッパ近代史における最も複雑なエピソードのひとつである」としています。[81]

[76] Snyder, T. (2010). p.6
[77] Davies, N. (1981). p.493
[78] Cienciala, A. M., & Komarnicki, T. (1984). p.220
[79] Snyder, T. (2003a). p.140
[80] Davies, N. (1981). p.493
[81] Davies, N. (1984). p.115

2012年2月14日

3 20世紀のポーランドとの歴史的関係

16世紀のポーランド・リトアニア共和国に起源を持つポーランドとの関係はウクライナ史の不可欠な一部です。ウクライナ独立以来、ポーランド及びロシアは最も重要な近隣諸国です。これらの国々の20世紀史を見てみると、大量虐殺、国境線変更、国外追放は今日のポーランド人とウクライナ人の関係に陰を落としています。
ポーランド第二共和国は1918年11月11日に成立しましたが、そのときウクライナは独立国家を成立させることができませんでした。それ以来、私たちが今日西ウクライナと呼ぶ地域に住む人々は1991年のウクライナ独立までポーランド、ドイツ、ソビエトの支配を経験しました。二度の大戦によってポーランド・ウクライナ間の国境は二度も変更されました。国境地方は1939年から1941年までのソビエト連邦によるエリートの追放、1942年から1942年までのホロコースト、1943年のポーランド人に対する民族浄化、1944年から1946年にかけてのポーランド人とウクライナ人の追放、1947年のウクライナ人に対する民族浄化を経験しました。第三章はどのようにウクライナの国境線が画定され、国境地方で発生した民族浄化が今日のポーランド・ウクライナ関係に影響を及ぼしているのかをという問いを調査するために20世紀におけるポーランド・ウクライナ史を検証します。
ポーランドへ焦点を当てることに際し、第三章では20世紀にどのようにしてポーランド・ウクライナ間の国境が確定されたのかという部分の過程を調査します。続いてどのような結果が国境線変更によってもたらされたのかを検証します。第二次世界大戦中、ポーランドとウクライナはナチスドイツとソビエト連邦の犠牲者となり、両者はそれぞれ民族浄化を経験しました。最終節では両者による1990年代の関係修復への取り組みを検証します。
第三章の注目点は何が起きたのかという歴史ですが、人々の歴史のとらえ方としての記憶と指導者が将来実行したいこととしての政策もまた第三章の問いへの回答を導く重要な要因となります。

2012年2月13日

2.6 第二章まとめ: ウクライナ・ソビエト関係史

ウクライナ革命中の短命に終わった3つの政府はウクライナという国家を作り上げることに失敗しましたが、ウクライナにおける民族運動の一連の出来事はボルシェビキにウクライナ民族主義者への譲歩が必要であること、1920年代に民族政策を真剣に検討しなければならないことを確信させました。それはロシアから分離されたウクライナ・ソビエト社会主義共和国の設立という結果になりました。ウクライナの国家建設はソビエト体制の中で始まり、そのナショナリズムの台頭はウクライナ革命に直面してソビエト体制の中でも無視できない状態にありました。
内戦後にボルシェビキはウクライナにおける支配を確立しました。なぜウクライナがボルシェビキによって独立した政府が設立された理由はウクライナでの民族運動を弱めることとウクライナ人民共和国を滅亡させるためでした。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立に際してクレムリンはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国との関係を定義しなければなりませんでした。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立はウクライナ革命と内戦の産物です。ソビエト連邦設立と1924年の憲法設置に代表されるソビエト政治の制度化は1920年代にソビエト制度内でのウクライナの指導者がウクライナ・ソビエト社会主義共和国の大権機能と民族自決の原則に基づいた連邦脱退の権限維持を防衛したことを説明します。この成果はレーニンの支持のおかげでウクライナの1990年代のソビエト体制からの平和的独立で重要な役割を果たすことに貢献しました。もしウクライナ・ソビエト社会主義共和国がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に吸収されていたら、ソビエト連邦崩壊後に大ロシア優越主義によって流血無く独立を果たすことは困難であったでしょう。.
ウクライナ化はウクライナでの出来事をモスクワが容易に支配できるようにするためと理解できます。しかしウクライナ化の結果は文化と政治の分野において深い国民意識の再生と発展としてのウクライナ版啓蒙活動をもたらしました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立はウクライナの物理的国境を形成した一方で、大衆教育、識字率向上施策、言語の標準化の導入による1920年代のウクライナ化政策はウクライナ・ソビエト社会主義共和国における人民の民族意識としての心理的境界を育み、補強しました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の何百万もの人々が自身をウクライナ人として気づき始めました。よってソビエト国家に推し進められた啓蒙運動としてのウクライナ化は近代的なウクライナの基礎を築き上げることに貢献しました。
ソビエト民族政策の解決策としてのウクライナ化は強い多数派であるロシアと貧しい他の構成共和国との間でソビエト初期における調和と保つために行われた妥協として見ることできます。それにもかかわらずこのソビエト民族政策は長続きせず、1920年代一貫してウクライナ指導者と対立していたスターリンの台頭と共に、1930年代の大飢饉と大粛正の時代にその立ち位置を大ロシア優越主義へと変化させていき、ウクライナ化は終焉を迎えてそれ以来ロシアの優越はソビエト全体を支配しました。1920年代のウクライナ化の時代だけがウクライナ人にウクライナ版の啓蒙運動としてウクライナの文化の発展を許しました。1920年代とは対照的に、ウクライナ化の後退はウクライナにおける脱ウクライナ化とも見ることができるでしょう。
ウクライナとロシアの国境はウクライナ革命と内戦の産物です。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国成立とその民族政策はウクライナという国家おいて重要な影響を及ぼしています。近代国家としてのウクライナの概念がナショナリズム台頭としてのウクライナ革命に見られる一方、その発展は1920年代にソビエト体制の中で行われたのです。1930年以降はスターリン台頭と共にソビエト連邦との関係は、かつて帝政時代にウクライナ人が経験したような従属的なものになりましたが両国には国境が存在していたのです。これがソビエト連邦での現実といえるでしょう。

2012年2月12日

2.5 1930年代から1980年代におけるソビエト民族政策

ウクライナ化政策は公式に廃止されることはありませんでしたが、強制集団農場化、工業化、ロシア共産党による中産階級文化への弾圧に直面した1930年代には終焉を迎えました。
強制集団農場化とその結果は悲劇そのものでした。1927年以来ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は生産ノルマを達成していなかったため、ウクライナ共産党は1932年の穀物調達計画をなんとしても達成する必要がありました。1930年代における穀物収穫量は減少していましたが、ロシア共産党はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に対して1930年に33.3%であった穀物徴収量を1932年には42.5%にまで増加させることを強いました。[55] 結局、それは1932年と1933年に少なくとも330万人ものソビエト市民がウクライナ・ソビエト社会主義共和国で餓死した飢饉となりました。[56] 1932年6月18日、スターリンはウクライナ・ソビエト社会主義共和国で飢饉があったことを非公式に認めましたが、彼はウクライナ共産党による食料援助の要請を退けてウクライナ・ソビエト社会主義共和国における穀物徴収は予定通り実行されるべきとしました。[57]
1932年12月14日、ロシア共産党中央委員会は民族主義者がウクライナ化を隠蔽として利用することに対する警告を発令しました。1933年1月、パベル・ポスティシェフが穀物徴収を予定通り実行し、民族主義者による反革命活動に終止符を打つためにウクライナ・ソビエト社会主義共和国の第二書記として任命されました。ウクライナ化からの非公式の撤退が1933年に開始しました。彼は525人中327人の地方党書記を罷免し、ウクライナ化の支持者を弾圧しました。1933年には約十万人もの共産主義者がウクライナ共産党から追放されました。1930年代初頭、政府は少数民族における土着化を制限し、著名な知識人を粛正しました。人口の10%ほどを占める最大少数民族であったロシア人だけがこの民族粛正から逃れることができました。ウクライナ化政策の後退はウクライナにおけるロシア文化の存在感を強めることになりました。[58]
この政策変更の結果として、1930年代はウクライナ・ソビエト社会主義共和国におけるウクライナ語の出版に大きな減少をもたらしました。10年間でウクライナ語の本のシェアは79%から42%へ、ウクライナ語の新聞は89%から69%へと減少しました。ウクライナ語で勉強する学生の数は1932年の88%から1939年の82%へとわずかに減少しました。1938年のすべての学校におけるロシア語学習の必修化はソビエト連邦がすべてのソビエト構成共和国における共通語をロシア語にしたことを意味するものでした。[59]
スターリンによって行われたこのウクライナ化からロシア化への一連の過程は大ロシア優越主義とブルジョア民族主義というふたつの逸脱がすべての国民とその言語は平等であるが民族主義はブルジョアイデオロギーであるというレーニンによる民族政策を実行する過程で共に存在したことによって説明することができます。[60] 1920年代、ウクライナ化政策はウクライナ共産党における民族共産主義者の存在感を強化しましたが、彼らはブルジョア民族主義というレッテルを貼られました。さらにウクライナ化の前提条件は知識人が国民文化と政治を分離することができたため、ウクライナ文化の承認はウクライナ政府へのいかなる支持を示唆する必要はなかったのです。[61] スターリンのロシア化への傾向に際して彼らは大粛正の標的となったのです。よって大ロシア優越主義の再生は1930年代に生まれたのです。
マーティンはソビエト民族政策は民族主義に対して懐柔するがそれは国民国家の典型的なモデルを採用しない形式を構成共和国へ保証するというアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置、肯定的差別)戦略であるとしています。[62]ソビエトの構成共和国は独立国家の形態と忘れられていることを強要される状態のいずれになることも許されませんでした。[63] 実際、大ロシア優越種主義は地方の民族主義よりもより危険であるとレーニンは見ていました。[64] 彼は大ロシア優越主義をロシア帝国における民族問題であったロシア問題として見なしており、彼自身の政策の中では大ロシア人とウクライナ人は別の国民であると認識していました。[65] よってウクライナ化の後退と大ロシア優越主義はロシア帝国主義の一面を帯びているように見えます。[66] ソビエト連邦におけるロシアの優越はこの時期に設立されたのです。
ウクライナにおけるウクライナ化の後退とロシア優越の存在感は第二次世界大戦後にもスターリン政治体制の残留品として継続しました。[67]第三章でみるように、スターリンは第二次世界大戦でのウクライナ人の背信を確信しました。 そして彼が1945年に対ナチスドイツへの勝利を祝った際には「ロシア人」へと乾杯しています。[68] これはウクライナを含むすべての構成共和国に対するロシア人の優越性を表しているといえるでしょう。
1953年のスターリンの死後、1958年から1959年にかけてのフルシチョフによる改革の際にウクライナ語の地位に関する議論が起こりました。しかし言語問題を主張した「1960年世代」という知識人の逮捕と1972年初頭のシェレストからシチェルビツキーへのウクライナ指導者への交代によって改革は停滞しました。シチェルビツキーと彼のイデオロギー担当の書記はウクライナ語の支持者を弾圧する文化プログラムを実施しました。[69]
第二次世界大戦後の継続的なロシア化の結果として、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は教授言語としてのウクライナ語で勉強する生徒の割合の劇的な減少を経験しました。言語的なロシア化はウクライナ・ソビエト社会主義共和国でベラルーシ・ソビエト社会主義共和国の次に最も成功しました。ウクライナ語で勉強する生徒の割合は1956年から1957年にかけては74%でしたが、1988年から1989年には47.5%と26.5%も減少しました。この傾向はウクライナ・ソビエト社会主義共和国における東部と南部において顕著であった一方、戦後にウクライナへ組み込まれた西部ではわずかに減少しただけでした。[70] ウクライナ語の占有率は46%から19%へと減少し、ウクライナ語の本の割合は1970年代に49%から24%へと減少しました。[71]
スターリンと彼の後継者:フルシチョフ、ブレジネフアンドロポフチェルネンコはロシア国家の概念を操り非ロシア人のロシア化を推進しました。当局によって作り上げられたプロパガンダは「偉大なロシア人」へと焦点を当て、その「ロシア」という意味合いは非ロシア人を侮辱し、多くのロシア人を困惑させました。しかしロシア国民、ロシア文化、ロシアの歴史は当局が目標を達成するために操作されていました。ロシア人は非ロシア人と比べて文化促進の分野で効果的に表現するため、雑誌、学術機関、劇場、出版物などの必要なインフラ上での特権を享受しました。Szporlukはこの現象を「ロシア文化の脱ソビエト化」 と表現しました。[72] ソビエト連邦は他国を植民地化はしませんでしたが、スターリンによる一国社会主義の政策はロシアの「国内植民地」としてソビエト連邦における非ロシア人の地域を搾取しました。[73] ソビエト連邦の民族政策はロシア帝国時代の概念に逆戻りしてしまい、それはレーニンが望んでいたものではありませんでした。最終的にソビエト連邦はその民族政策において「ロシア」そのものとなってしまい、よってウクライナは厳しいロシア化を経験しなければなりませんでした。これは1930年代以降のソビエト連邦とウクライナの関係における顕著な特徴です。Szporluk はロシア帝国時代の意識と帝政ロシアの遺産はソビエト末期のウクライナ・ロシア関係において明らかで、帝国時代の意識はロシア帝国崩壊から70年後のソビエト連邦でも健在であったと結論づけています。[74]よってソビエト連邦の民族問題はロシア問題であり、すなわちそれはレーニンが1920年代に既に認識していた大ロシア優越主義の問題でありました。[75]

[55] Liber, G. O. (1992). pp.164-166
[56] Snyder, T. (2010). p.53
[57] Ibid. pp.34-35
[58] Yekelchyk, S. (2007). pp.112-114
[59] Ibid. p.116
[60] Farmer, K. C. (1980). pp.40-41
[61] Snyder, T. (2005). pp.54-55
[62] Martin, T. (2001). pp. 3, 18
[63] Snyder, T. (2010). p.11
[64] Martin, T. (2001). p.7
[65] Szporluk, R. (2006). pp.612-613
[66] Blitstein, P. A. (2006). p.293
[67] Farmer, K. C. (1980). p.43
[68] Kuromiya, H. (2007). pp.719-720
[69] Solchanyk, R. (1990). pp.177, 187
[70] Janmaat, J. G. (2000). pp.108-110
[71] Yekelchyk, S. (2007). p.173
[72] Szporluk, R. (1990). pp.12-13
[73] Kuromiya, H. (2005). p.86
[74] Szporluk, R. (1990). pp.19-20
[75] Szporluk, R. (2006). p.620

2012年2月11日

2.4. 1920年代のソビエト民族政策下でのウクライナ啓蒙運動

内戦が終結するとソビエト連邦及びウクライナ・ソビエト社会主義共和国の建設が実行されなければならなりませんでした。新経済政策(NEP)とウクライナ化政策は国家建設の重要な柱を構成しています。
内戦中ボルシェビキは緊急計画として強制徴収を強いる戦争共産主義政策を採択しました。新経済政策は1921年3月に発生したクロンシュタットの反乱に直面した際に導入されました。新経済政策下において小作人は政府に固定の税金を支払い、超過分の生産物は市場経済で循環させることができました。民間部門の再生を推し進めた新経済政策はよく機能して1927年までにウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国民総生産は第一次世界大戦以前の水準にまで回復しました。[46]
1919年から1923年までボルシェビキはロシア以外の地域での構造的問題への解決策を模索しました。目標はほとんどが小作人で構成されていた大衆にとって共産党を身近な存在にするため、地元の言語による文化機関を発展させ、地方の社会的な不平等をなくすことでした。さらに地元の労働者階級と小作人をソビエト体制へ組織・勧誘する必要がありました。民族問題への解決策は1923年4月の第十二回ロシア共産党大会で採択されました。その決定事項は地元の人々は近代化され、無産階級化され、労働者階級の意識を受け入れ、ソビエトの指導により抵抗のない状態にすることでした。この過程での自然な進化を促すため、非ロシア人地域で機能するすべての政府機関で母国語の使用を保証する法律が制定されました。ロシア共産党はロシア人と非ロシア人との関係を再度交渉する必要があったため、非ロシア人の文化を支持することをもくろみました。[47]ソビエト体制での民族はソビエトの市民としてソビエト計画を受け入れることとされていました。[48]ロシア共産党によって練られたこの非ロシア人への民族政策は土着化(Korenizatsiia)と呼ばれ、この土着化はソビエト時代初期の識字率の低さ、経済発展の遅れ、文化的発展の遅れ、ロシア化された都市と非ロシア人の田舎との間の緊張関係という社会の構造的問題を解決することを目的としました。これらの手段は各々の問題を解決するために実行されなければなりませんでした。[49]
土着化に従って、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内でもこの政策が実行されなければなりませんでした。ウクライナでの土着化の実行はウクライナ化と呼ばれます。このウクライナ化という用語は「1923年と1924年にウクライナ共産党によって遂行された国家の横顔と党の機関を世に広めウクライナ人の目によってソビエト支配を正当化する一連の政策あり、ウクライナ化は土着化のウクライナ版です。」[50]
1923年4月4日から10日にかけて首都ハリキフで開催されたウクライナ共産党の第七回党大会でウクライナ化政策は公式に採択され、ウクライナ化に関する最初の法令がウクライナ共産党の中央委員会決議として1923年6月22日に発行されました。それは扇動とプロパガンダを行う多くの機関、特に地方、ウクライナ語によるマルクス文学の普及、学校教科書のウクライナ語への翻訳の分野においてウクライナ化を実行に移す段階を取り決めるものでした。さらに大学でのウクライナ研究、地方でのウクライナ語の新聞、地方へのウクライナ語を理解する公務員の派遣も要求しました。一連の決議に基づいてウクライナ・ソビエト社会主義共和国はウクライナ化についての最も重要な法令を1923年8月23日に発効しました。それはすべての公務員がウクライナ語を習得すること、ロシア語を含むウクライナ語以外の言語の使用は認められるものの政府の文書と口頭における作業言語をロシア語からウクライナ語へ徐々に切り替えていくことを義務づけるものでした。[51] 実際にレーニンは学校と官庁でのウクライナ語の使用を支持していました。[52]
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内でのウクライナ化政策の効果について、その実行は二つに分類することができます。最初のひとつは政治と経済の分野でのウクライナ語の使用を導入する試みです。そして二つ目は授業、ウクライナ語で書かれた本や新聞の配布、コンサートや映画の上映会の開催などを行い、ウクライナの文化と言語を広める努力です。人々にウクライナ語を義務とすることを正当化するのは国家機関のみが義務づけられていました。[53]
1925年時の2割と比べて、1927年までに7割のビジネスと政府機関でウクライナ語が話されるようになりました。1927年ウクライナ人の党と公務員で占める割合は5割以上に達しました。1929年までには83%のすべての小学校、66%の中学校がウクライナ語を教授言語とするようになりました。97%のウクライナ人はウクライナ語が使用される学校に入学しました。それにもかかわらず、高等教育機関では初等教育機関よりも遅いペースでロシア語の置き換えが進みました。1928年までにたった42%の大学生が教授言語としてのウクライナ語で勉強しました。1931年と1932年までには市場に出回っている75%の本がロシア語で書かれていたにもかかわらず、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の88%の定期刊行物と77%の本がウクライナ語で出版されました。1927年までに識字率は1897年の非識字率28%と比較して、都市部で70%以上、農村部で50%以上という記録的な高さを記録しました。[54]
ソビエトの民族政策の究極の目的は非ロシア人の共和国におけるソビエト政府の統治を強化することであったにもかかわらず、土着化とウクライナ化の結果としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国で起きたことは近代国民国家建設の基礎となる国民文化、教育、行政の分野におけるソビエト政府によって支援された国家建設の発展でした。この時代、多くのウクライナ・ソビエト社会主義共和国内の人々が自身をウクライナ人として自覚し始めることになったのです。 これはウクライナにおける啓蒙運動と言うことができるでしょう。その一方で政府、党におけるウクライナ化の結果はロシア共産党と親ロシア勢力が逸脱者と見なし始めた民族共産主義者と呼ばれる民族主義的な党員の増加をもたらしました。

[46] Yekelchyk, S. (2007). pp.86-88
[47] Liber, G. O. (1992). pp.34-36
[48] Snyder, T. (2010). p.85
[49] Liber, G. O. (1992). pp.36-37
[50] Struk, D. H. (1993). p.464
[51] Liber, G. O. (1992). pp.42-43
[52] Borys, J. (1980) p.123
[53] Krawchenko, B. (1985). pp.79-80
[54] Yekelchyk, S. (2007). pp.93-94, 99

2012年2月10日

2.3 ソビエト連邦成立と民族問題

ウクライナでのソビエト政府成立における最終段階はソビエト社会主義共和国連邦の成立です。ソビエト連邦は構成国との条約締結とソビエト憲法の設置によって成立しました。1922年12月30日に締結されたソビエト社会主義共和国連邦設立に関する条約よって公式にソビエト共和国がソビエト連邦を成立させました。その条約は新しい連邦政府の主要な法的及び政治的概要と連邦国家と構成共和国との関係をそれぞれ定義しました。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ベラルーシ、トランスカフカスと共に連邦国家へと合併を行った最初の4つの共和国のひとつでした。[36]最初のソビエト憲法は第十二回共産党大会が連邦制と中央集権化された連邦制の二つの考えを非現実的として採択しなかった後、1924年1月31日に施行されました。ソビエト憲法は最初の構成共和国は平等な権利を有すること、構成共和国が連邦国家から脱退することを認める民族自決の原則を認めるものでした。[37]
ソビエト憲法を念入りに作り上げることは連邦政府と構成共和国との権力構造に関する議論を引き起こしました。憲法制定のための闘争は中央集権主義者と地方分権主義者によって行われました。この闘争は中央集権主義者のロシア共産党指導者であるスターリンと地方分権主義者のウクライナ共産党指導者ラコフスキスクリプニクに代表されます。
スターリンは「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国における連邦制度を支持する組織は中央集権主義の原則から後退して民族主義活動への妥協を強いるのものである」と主張しました。[38] そして彼は将来のソビエト共和国は自治共和国としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へと吸収されるべきという独自の決議草案をロシア共産党中央委員会へと提案しました。このスターリンによる概念は自治化(Autonomisation)と呼ばれています。スターリンは連邦政府と共和国の間の2段階構成に反対したのです。一方、ウクライナ共産党はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国との平等な地位を要求し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国へ吸収されることに反対しスターリンの自治化に反対しました。両者の対立に直面して健康状態悪化のため影響力が衰えつつあったレーニンはスターリンの自治化に対する仲裁者の役割を果たしました。レーニンはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を含むすべての共和国が一つの連邦国家へと合併すべきであり、その連邦国家における共通中央委員会が組織されるべきであると提案しました。[39] 「レーニンの民族自決の原則への支持は曖昧な現象への評価ではなく、当時発生していた歴史的、社会的、政治的な現象への現実的な評価でありました。」[40]レーニンはウクライナにおける民族主義運動と人民の民族意識への当初の過小評価を完全に修正しました。[41] 結局、最終決議の形式はレーニンの介入によって二段階構成となりました。「1922年から1923年にかけてのソビエト連邦の成立は自治国家の領域における連邦というよりはむしろ独立国家の領土的な形成を設立したものでした。」[42] またスターリンは結局レーニンへ歩み寄ったのです。
ソビエト連邦の体裁とソビエト権力の分担に関する議論に直面したスクリプニクとラコフスキなどのウクライナ共産党の指導者たちはロシア人たちがウクライナの主権を認めるよう働きかけ、なんとかスターリンの自治化に対してウクライナ側の要求を守りぬきました。彼らは単にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の大権機能を代表したのではなく、すべての非ロシア人によって構成される共和国の主張を代表したのです。ウクライナ人の反対派が議論で存在感を示した重要性はウクライナ人がウクライナは独立した政治単位として扱われるようロシア人を納得させ、ウクライナがウクライナ化政策に代表される1920年代のソビエト民族政策に影響を与えたことです。さらに特筆すべきポイントとして民族自決の原則は単にウクライナの民族主義者だけで養われただけはなく、ソビエトの政治体制の中であるウクライナの共産主義者たちの間でも養われたことです。Szporluk はレーニンの判断としてのウクライナ・ソビエト社会主義共和国のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からの分離は1990年代のソビエト連邦崩壊が平和的に進んでいったことを助け、ソビエト崩壊がユーゴスラビアのレプリカとなることを防いだと述べています。[43]
ソビエト憲法で保証されていた民族自決の原則に基づく連邦からの脱退の実現性について、実際には構成共和国は脱退を考えることは想定されておらず、完全な俗説でした。さらにこの脱退権限がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国によって行使されることは全く想定されていませんでした。[44] よって1953年までソビエト連邦を支配したスターリンはこの脱退問題について「スコラ的で無用な問題」とコメントしています。[45]

[36] Ibid. p.327
[37] Aspaturian, V. V. (1950). p.27
[38] Guins, G. C. (1950). p.336
[39] Borys, J. (1980). pp.315-316
[40] Aspaturian, V. V. (1950). p.23
[41] Borys, J. (1980) p.252
[42] Martin, T. (2001). p.18
[43] Szporluk, R. (2006). pp.620-621
[44] Ibid. p.620
[45] Aspaturian, V. V. (1950). p.27

2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立とウクライナ問題

ペトログラードでの十月革命の直後ボルシェビキはキエフで武力によって権力を掌握しようと試みました。ボルシェビキの状況は有利であったにもかかわらず、キエフの政府はラーダに権力を委譲しました。ボルシェビキはラーダで権力を掌握する必要があると悟りました。1917年12月17日、ボルシェビキがソビエト政府を樹立させるため、労働者・兵士・農民の代表によるソビエト評議会がキエフで開催されました。それにもかかわらず代表団はラーダを支持したため、ボルシェビキは彼らがソビエト政府を樹立させることができたハリキフへ逃れなければなりませんでした。このことは(北から見たドニプロ川の)右岸左岸の一部の地域はボルシェビキを支持していなかったことを彼らに実感させるのものでありました。[29] この段階で事実上の政府としてキエフを支配下においていたラーダはボルシェビキよりも影響力がありました。よってウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都は1934年までハリキフにありました。
ウクライナのソビエト政府はハリキフにてソビエト評議会によって設立され、ウクライナ中央委員会と人民書記局が1917年11月に設置されました。ペトログラードの人民委員会議はハリキフの人民書記局を認めましたが、軍事と高度の政治的事項に関しては権限を認めませんでした。ウクライナではボルシェビキがあまり支持されていなかったため、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の政府は不安定で幾度も解体されたり再結成されたりしました。[30] ウクライナ人民共和国とは別に締結されたブレスト・リトフスク条約はボルシェビキがウクライナ人民共和国の主権を法規上認めることに同意したとしています。しかしレーニンは中央同盟国の敗北を待っていただけで、中央同盟国の敗北後にはボルシェビキによってウクライナ臨時政府が11月28日に設立されています。赤軍がウクライナ領土を1919年1月に掌握したとき、ソビエト社会主義共和国の政治形態は再度形成されました。[31]
国際法の見地から最初の独立ウクライナのソビエト政府を見てみると、それは1918年3月にエカテリノスラーフでの第二回ウクライナ・ソビエト評議会でロシア連邦の一連邦として宣言されています。この段階ではウクライナ共和国とロシア共和国の関係に関する具体的な形式は定まっていませんでした。中央同盟国の敗北後に初めてウクライナのソビエト政府は世界の他の国々と外交関係を樹立する用意がありました。第三回ソビエト評議会はウクライナ・ソビエト社会主義共和国の憲法を制定し、ウクライナはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に含まれることが想定されていました。しかしこの独立はボルシェビキの政策によって制限されていました。ウクライナのボルシェビキ勢力は軍事力と党の機能をロシアのボルシェビキに依存していたため、彼らはロシアのボルシェビキの指導を遵守しなければなりませんでした。1919年初頭の戦時中、ウクライナの最初の連邦機能は赤軍との軍事提携が実施され、その後ロシアとの経済提携が1919年に実施されました。[32] 当初ボルシェビキの指導者たちはウクライナが独立国家の体裁をおびることとウクライナがロシアによって吸収されることは重大な議論の対象ではないとみなしていました。それにもかからわず、1919年8月の白軍のモスクワへの進軍はボルシェビキ指導者にウクライナ・ソビエト社会主義共和国は存在すべきかという問いであるウクライナ問題の政策変更を余儀なくさせました。ボルシェビキの政治局は1920年1月17日と18日の会合でウクライナ問題を協議すると発表しました。そして国家経済の管制高地での中央集権化された管理体制を維持し、公式なウクライナ・ソビエト社会主義共和国の独立に批准すると結論づけました。[33] ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国家間の関係を形成することはレーニン、外務人民委員のチチェーリン、ウクライナ側代表のラコフスキによって署名された1920年12月28日の「労働者と農民の条約」によって決定されました。条約はウクライナとロシアの独立と主権という表現を用いていたにもかかわらず、ウクライナ政府におけるいくらかの部門におけるウクライナのロシアへの従属を強調していました。[34]
おもしろいことにウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に従属していたのですが、ウクライナは1920年代初頭に複数の国々と外交関係を樹立していました。ソビエトウクライナ独立の承認は合意書と条約によって観測されています。すでに述べたとおり、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とポーランドは1921年3月18日のリガ条約でウクライナ・ソビエト社会主義共和国を承認しました。オーストリア、チェコスロバキア、エストニア、ラトビア、リトアニア、トルコはウクライナ・ソビエト社会主義共和国をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とは別の主権国家として承認し、さらにフランス、ドイツ、ハンガリーはウクライナ・ソビエト社会主義共和国といくつかの合意書を締結しています。[35]
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の設立は単にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の制作物にすぎなかったのです。ウクライナはロシアからは切り離されて自身の外交関係を持つようになりました。ロシアの共産主義者の決定はウクライナでのソビエト政府の樹立を最優先としていたため内戦中ではそれがウクライナ・ソビエト社会主義共和国であろうかロシア・ソビエト連邦社会主義共和国であろうかは問題ではなかったようです。ウクライナを支配下に置くための闘争の結果、ボルシェビキがソビエトウクライナの樹立に成功し、ウクライナ問題への回答はロシアへの従属ではあるものの独立国家としてのウクライナ・ソビエト社会主義共和国の樹立でした。ロシアとの関係は1920年代にソビエト連邦成立と共に定義されなければなりませんが、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の樹立はソビエトの政治体制の中でロシアとウクライナの間に国境線が画定されたときであったのです。

[29] Borys, J. (1980). pp.180-183
[30] Ibid. pp.188-194
[31] Kulchytsky, S. (2003). pp.346-349
[32] Borys, J. (1980). pp.296-298
[33] Kulchytsky, S. (2003). pp.351-353
[34] Ibid. p.356
[35] Borys, J. (1980). pp.310-311

2012年2月9日

2.1.3内戦とディレクトーリヤ

中央同盟国の敗戦に直面してドイツへ依存していたヘトマンはその後の政権維持が困難になりました。ドイツ軍の撤退はウクライナ領土での権力の空白を意味し、再び赤軍、白軍、ウクライナの各勢力による内戦へと突入しました。第一次世界大戦後まもない時期に首都キエフを支配下に置いた勢力は次から次へと入れ替わりました。
1918年11月13日にヘトマンの運輸省で開催された秘密会議では社会主義者ヴィニィシェンコと民族主義者ペトリューラら5人によるディレクトーリヤがヘトマン政権を置き換えるために設立されました。12月14日、スコロパードシクィイは彼のヘトマンからの退位を発表し、ドイツ軍の合意の下ディレクトーリヤが首都のキエフへ入りました。新しい政府は12月26日に宣言と共に樹立されました。[24] しかしディレクトーリヤはボルシェビキ侵攻の危険性のためキエフからヴィーンヌィツァへの撤退を余儀なくされました。1919年1月、西ウクライナ人民共和国の勢力が合流しました。ディレクトーリヤはフランスと対ボルシェビキで協力する交渉を行いましたが、フランスがペトリューラを不適切な指導者と見なしており援助の代わりにディレクトーリヤが到底受け入れることのできない彼の退任を要求したため交渉は成功しませんでした。2月には最高指導者のヴィニィシェンコが辞任して国外へ亡命しましたため、ペトリューラはそれ以来ディレクトーリヤの権力を完全に掌握しました。[25]
ペトリューラのディレクトーリヤはもはや他の勢力の援助なしには首都のキエフに入城することはできませんでした。当初ディレクトーリヤはデニーキン率いる白軍と共闘し、1919年8月30日にウクライナの合同陸軍は白軍と共にキエフを支配下に置きました。しかし白軍がウクライナの独立を認めなかったためにペトリューラの勢力はキエフを離れることを強いられました。[26] ペトリューラの勢力がキエフを行進した二度目の試みはピウスツキの腹心でウクライナ人民共和国の内務副大臣に就任予定であったヘンリク・ユゼフスキの調整により1920年4月21日に締結されたワルシャワ条約によって実現したポーランド第二共和国とでした。[27] 対ボルシェビキ戦の最中にポーランドはディレクトーリヤと共に戦うことに合意し、ディレクトーリヤがポーランドの東ガリツィアの主権を認めるかわりにペトリューラ個人をウクライナ国家の唯一の指導者であることを認めました。このワルシャワ条約はまた東ガリツィアがディレクトーリヤの領土ではないとも定義しました。1920年5月20日ポーランドとウクライナの軍隊はキエフに入城しましたが、6月上旬にボルシェビキが反撃を開始するとその勢いはポーランドの首都ワルシャワ近郊にまで及びました。最終的にはフランスの軍事援助のおかげでポーランドはなんとかポーランド・ソビエト戦争に勝利することができました。ペトリューラのウクライナ勢力はポーランド軍の一師団として参戦しました。1920年11月20日にポーランドとボルシェビキが停戦に合意すると、ウクライナの一師団はポーランドによって武装解除されてその人員は捕虜収容所へと送られました。[28] 結局、ポーランドがボルシェビキの主権を認めたためワルシャワ条約との間に齟齬がうまれてしまったリガ条約は単にポーランド・ボルシェビキ戦争に終止符を打っただけではなく、ウクライナ人民共和国の運命にも終止符を打つことになりました。以後、ウクライナの国家建設はソビエト連邦のなかで続けられることになりました。
ここにディレクトーリヤが内戦中に政権を担当する能力があったのかという問いがあります。よってフランスのような大国がディレクトーリヤを支持しなかった事実は最終的にディレクトーリヤにとって不公平なワルシャワ条約締結となるポーランドとの軍事協力へ働きかける動機となりました。ペトリューラの役割はディレクトーリヤの存在をいかなる犠牲を払おうとも維持することだったように思えます。もし彼がポーランドとの協力を控えていたならば大国はディレクトーリヤを援助できていたかもしれません。白軍の陥落後、大国は明確にボルシェビキに対する均衡勢力を必要としていましたがディレクトーリヤはその均衡勢力になることはできませんでした。ポーランドとは異なりウッドロー・ウィルソン米国大統領はウクライナを国家とはみなしませんでした。よって孤立したウクライナの勢力はボルシェビキとポーランドという地域の列強の台頭の前に消え去りました。
ウクライナ革命の独立国家樹立への影響について、ウクライナ革命はボルシェビキに民族主義者への妥協の必要性とウクライナがロシアから分離されるかもしれないという考えを認識させました。よって成功しなかった独立国家の樹立という試みはウクライナ・ソビエト社会主義共和国としてソビエトの政治形態の中でウクライナの政治単位を作成するに至ったのでしょう。これは最も重要なウクライナ革命の成果の一つです。よってなぜ現在のウクライナがその起源をこれらの短命に終わった政府に見いだしているのかということでしょう。


[24] Ibid. pp.199-203
[25] Nahayewsky, I. (1966). pp.171-177
[26] Ibid. (1966). pp.189-192
[27] Snyder, T. (2005). p.8
[28] Reshetar, J. (1952). pp.299-316, Snyder, T. (2003a). p.140

目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...