2004年はウクライナにとって独立以来最も重要な年であり、EUの東方拡大の結果としてEUと直接境界に接する歴史的なシフトをもたらしました。一連のEU東方拡大での出来事は実際にはウクライナの領域を変更するものではありませんでしたが、21世紀における政治的、経済的、地理的な意味での新しい国境線画定としてとらえることができます。ウクライナの西部国境線がEUの国境と一致して以来EUはウクライナに何を提供してきたのでしょうか?この問いは第五章での基本的な問題です。よってEUの隣人としてのウクライナにとって2004年からのEUとの関係を解釈することは避けて通れないことなのです。
EUは政治的、経済的に最も発展して豊かな隣人なので、ウクライナのような1990年代に新たに独立した国家が凝視してきた成功モデルもしくはベストプラクティスとしてEUは見られてきました。1998年6月、ウクライナ大統領クチマは長期的な戦略的目標と重要な先見事項としてウクライナのEU加盟を目標とする政令に署名しました。[167] クチマの後任者であるユーシェンコは独立後のどの大統領よりもEUへの傾向を強めました。民主国家としての20年間に及ぶウクライナの国家建設は進展していたはずです。
第五章の目的はウクライナがどの程度EUとの関係を通じて発展してきたのかを欧州的観点から調査することです。欧州的規範に基づいてウクライナの発展度合いを計測するために第五章ではまずEUがウクライナとの関係を定義する欧州近隣政策(ENP)を欧州化の波として焦点を当てます。それに続く節ではENPの核心となる概念であり欧州化の具体的な形であるコンディショナリティーという概念に基づいてENPの背景にあるEUとウクライナの関係を分析します。そしてENPの現状を簡潔に確認した後、ウクライナの発展度合を欧州委員会の報告書と共に計測します。
第五章はウクライナのEU加盟問題を議論するものではありませんが、この問題はEUの東方拡大過程で重要な役割を演じたコンディショナリティーを議論することは避けて通れず、現実的なことです。EUとウクライナの関係を解釈し、EUとウクライナの距離をウクライナの発展度合という観点から計測するため、このコンディショナリティーの議論は将来のウクライナのEU加盟について何か示唆するようなことがあるかもしれません。
[167] Wolczuk, K. (2009). p.192
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はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
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