2004年のEU東方拡大以降の東ヨーロッパの地方においてEUの隣国と良好な関係を構築する必要性が欧州近隣政策の設立を動機づけました。[168]ENPは明示的に将来の加盟への展望を除外してものではありますが、EU東方拡大における制度上および手続き上の経験に基づいたものです。[169]ENPの実行のためにEUの声明として一連の文書が発行されました。この節ではENPの公式の目的とこれらの文書を通じての手続きを次の節でENPを分析するために把握します。
ENPの起源は2002年に英国がウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ロシアを対象として「より広大な欧州」の先導を求めたことによって発展しました。[170] 2002年12月、欧州委員会委員長のプロディがEUの隣国との関係を扱う近隣の政策を「パートナー以上、EU加盟未満、そして加盟を除外することなく」という表現と共に表明しました。[171] 公式な宣言は2003年3月11日の欧州委員会による声明として宣言されました。ウクライナは対象国のひとつでした。その声明はウクライナに「EU域内の市場へのアクセス」への見通しと人、財、サービス、資本の移動の自由をEUに加盟することなくさらに統合・自由化を提供することでした。その対価としてEUと価値観の共有、アキ・コミュノテールといわれるEUの法体系と対象国との法体系を整列させることを含む政治経済の改革において具体的な進展が対象国は求められました。[172]この書類においてプログラムの利点と便宜を受けるための条件が明らかになりました。この声明はまた目標と評価基準を設定するアクションプランについても言及しました。[173]
2004年5月12日に発行された戦略文書に明記されたENPの目標は「2004年のEU東方拡大の利益を安定化、安全保障、すべてに関する福利において近隣諸国と共有すること」[174] および「拡大したEUとその近隣諸国との間での新たな分割の台頭を防ぎ、彼らにさらなる政治的、安全保障上、経済的、文化的な協力を通じて多様なEUの活動へ参加する機会を提供すること」としています。[175] EUはEUとEU非加盟国の間での広範囲な分野での分割を緩和したかったのです。この目的はアクションプランによって実施されることとなりました。
アクションプランはプログラムの具体的な計画というよりはむしろ計画不履行の場合に法的拘束力がなく、以前から存在している契約で保証されたEUとの関係に基づいた目的の政治的な宣言です。[176]アクションプランは1994年に調印され1998年3月に施行され[177]、幅広い分野における協力を提供するEUとウクライナの関係における法的枠組みを構成するパートナーシップと協力合意(PCA)を置き換えずに強化することを目的としました。EUはアクションプランをENP加盟国と個別に締結します。よってアクションプランの内容はENP加盟国がどの程度EUに接近したいのかに依存することになり、それらは国々によって異なるものになります。EUはこの点を「共有の所有権」として強調しており、それは「共通の合意とENP加盟国の意志」として定義されています。[178]
2005年2月21日のEUとウクライナのアクションプランは3年間わたって設定されました。PCAまたは提携合意は法的、規制力をもつEU法への接近のための工程表を作成しませんでした。[179]アクションプランの実行はPCAの既存の合意を助け、ウクライナの法律、規範、基準、がEUのそれらへの接近を前進させることを目的としました。[180] それはPCAを履行するための具体的な段取りを明記し、現状の協力関係をさらに発展させることを奨励しました。[181]ウクライナにおいてアクションプランはクチマ政権によって合意されました。ユーシェンコ大統領は2005年にウクライナのEU加盟を目標として主張し、宣言とアクションプランの実行の溝を埋めることを約束したにもかかわらず、ユーシェンコ政権はクチマ政権によって1998年と2000年に採択されたウクライナのEUへの統合に関する国内の主要な文書を更新しませんでした。[182]
アクションプランは特定の活動のための優先順位を設定しそれらは監視、評価されることができる評価基準で構成されました。監視は共有の所有権を補強すべきであり、ENP加盟国は詳細な情報を共有の監視活動という原則としてEUに提供することが求められました。そして欧州委員会はENP加盟国による評価が考慮され、ENP加盟国がさらなる努力を行う定期的な進捗報告書を発行します。[183] ウクライナの場合、EUとウクライナの協力議会がアクションプランの実行を監視することになりました。[184] 2006年以来、欧州委員会は年時の進捗報告書を発行しています。
コンディショナリティーの概念は戦略文書で言及されましたが、ENP加盟国がアクションプランの目的を履行する限りにおいてEUはEU域内の市場へのアクセスや金融・技術的支援のような利点をENP加盟国に提供することになっていました。[185]
[168] Bürger, J. (2008). p.165
[169] Sasse, G. (2008). p.295
[170] Mahncke, D. (2008). p.23
[171] Prodi, R. (2002, 12 06). Romano Prodi President of the European Commission A Wider Europe - A Proximity Policy as the key to stability "Peace, Security And Stability International Dialogue and the Role of the EU" Sixth ECSA-World Conference. Jean Monnet Project. Brussels, 5-6 December 2002.
[172] European Commission. (2003, 03 11). Neighbourhood: A new framework for relations with our Eastern and Southern neighbours. p.10
[173] Ibid. p.16
[174] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.3
[175] Ibid.
[176] Mahncke, D. (2008). p.37
[177] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Country Report: Ukraine. p.3
[178] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. p.8
[179] Gstöhl, S. (2008). pp.152-153
[180] European Commission. (2005). EU/Ukraine Action Plan. p.1
[181] Bürger, J. (2008). p.168
[182] Wolczuk, K. (2009). p.200
[183] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. pp.9-10
[184] European Commission. (2005). EU/Ukraine Action Plan. p.42
[185] European Commission. (2004, 05 12). European Neighbourhood Policy Strategy Paper. pp.4, 8, 9, 25
登録:
コメントの投稿 (Atom)
目次
はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...
-
1939年の第二次世界大戦の勃発はポーランド第二共和国に終焉をもたらしました。この大戦中、ナチスドイツとソビエト連邦は西ウクライナを占領しました。彼らは地域社会を破壊して地元の住民(特にエリート層)は追放や殺害されました。前述のとおり、ポーランド人とユダヤ人は西ウクライナにおいて...
-
第一次世界大戦後の新しいポーランドは多様な民族によって構成されてい ました。ポーランド語話者は全人口の約66%を構成し、その他の人口としては15%がウクライナ人、9%がユダヤ人、5%がベラルーシ人、2%がドイツ人 でした。ドイツ人とユダヤ人は都市部の豊かな中産階級を構成した一方、...
-
中央同盟国の敗戦に直面してドイツへ依存していたヘトマンはその後の政権維持が困難になりました。ドイツ軍の撤退はウクライナ領土での権力の空白を意味し、再び赤軍、白軍、ウクライナの各勢力による内戦へと突入しました。第一次世界大戦後まもない時期に首都キエフを支配下に置いた勢力は次から次へ...
0 件のコメント:
コメントを投稿