2012年3月2日

4.5 第四章まとめ:クリミア半島の自治権

クリミア半島の歴史と民族構成はクリミアがソビエト連邦崩壊後に深刻な民族対立を起こしていたかもしれない十分な条件が整っていたことを示しました。しかし1990年代にクリミアで発生したことは主に民族対立というよりはむしろ中央政府と地方政府の対立でした。 このタイプの対立の背景にある理由としては以下の2点があげられます。第一に1990年代初頭のロシア人による民族運動はクリミア経済が独立後に疲弊する中でロシア人のアイデンティティーが曖昧であったために持続的ではなかったことです。メシュコフ政権の浮き沈みはこの弱い団結を表しています。第二にロシア議会が情勢の流動化に拍車をかけていた中でイェリツィン政権がクリミアにおけるロシア人の民族主義からは距離を置いたことです。これらの2点は純粋なキエフとシンフェロポリによる対立の構図を作り上げたのです。
コーネルが指摘した3つのリスクはクリミアの場合では相殺されました。闘争の結果による憲法に明記された「ウクライナにおけるクリミアの自治権」はさらなる自治への要求を和らげることができます。ソビエト政権下の土着化政策によって1920年代にクリミアに自治権があったという既成事実は1990年代初頭にクリミアに自治権を与えることに貢献しました。ロシアの関与の欠如はクリミアの政治情勢流動化に対する介入の可能性を減少させるものでした。これらの理由はクリミアに自治権を付与することに対して正当性の感覚を与えました。
中央政府と地方政府の権力闘争の中で、ウクライナの国家建設とクリミアの地位問題は両者の注目を憲法制定へと向かわせました。長引いた憲法制定過程はOSCEの調停によって両者の妥協を引き出しました。ウクライナにおける自治という地位はキエフがクリミアをウクライナ主権下へ収め、シンフェロポリは自治権の地位を憲法へ明記することに成功したお互いの妥協を象徴しています。セヴァストポリの賃貸合意とロシアとの条約締結はウクライナにクリミアでの主権を承認することになり、クリミアに対するロシアのこれ以上の野心を防ぐことになります。憲法上および国際的に中央政府のキエフがクリミアを支配下に置いたことはウクライナの国家建設を強化することになったのです。この意味においてクリミアの地位に関する交渉は中央政府に対して好ましい影響を与えたのです。
最後にクリミア・タタール人は完全に蚊帳の外でした。いったん問題が中央政府と地方政府の対立となると、人数の少ないタタール人にとっては彼らの声を代表する余地がありませんでした。クリミアのロシア人とは異なりクリミア・タタール人は彼らに肩入れを行う親類となる国家がありませんでした。1990年代タタール人はよく組織されていましたが、彼ら置かれた立場はとても貧窮した状態でした。外国からの援助のないクリミア人口の12.1%を占めるにすぎない少数民族が1990年代にロシア人がおこなったようなクリミアでの政治情勢を流動化させることは困難でしょう。しかしこの解決されていないタタール人の問題が今後解決されるべきリスクであることには疑いの余地はありません。

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...