2014年3月8日

6. 第六章:結び

ウクライナ国家の建設はどのようにして理解すればよいのでしょうか。この論文はウクライナの国境線画定が西欧からの国民国家とナショナリズムという概念に基づいたものではないという前提から議論を始めました。これまで見てきたように、ウクライナ領土の人工的な形成が外部の力の影響下で行われ、その国境は外部の勢力の意志決定により画定されたのです。ウクライナは独立以来これらの所与の状態として対処してきました。すべての国境線画定過程とその結果は現在のウクライナに影響を与えてきているのです。

第二章では現在のウクライナにおける近代的な概念の基礎となった物理的及び心理的ウクライナの国境がソビエト連邦によって画定されたことを調査しました。ウクライナ革命はウクライナにおけるナショナリズムがロシア革命後に存在していたという事実を証明しています。ウクライナ革命はウクライナ国家の樹立とはなりませんでしたが、その失敗した試みはウクライナはロシアから分離されるべきかというウクライナ問題への解決策としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国の設立をボルシェビキに確信させたのです。さらにソビエト体制の中で存在していたウクライナ人のナショナリズムに直面してボルシェビキは当時そのナショナリズムを無視することはできず、ソビエト連邦の設立という結果となったロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国との関係を定義しなければなりませんでした。ソビエトの政治体制の構造についての激しい議論はソビエト連邦の設立によって結論づけられました。ソビエト連邦設立の過程においてウクライナ人の共産主義者及びレーニンはウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国体と民族自決の概念に基づいた連邦からの脱退権限を死守しました。1920年代のソビエト体制におけるナショナリズムの結果及びレーニンの意志決定はソビエト連邦が平和的に解体されることに貢献し、ウクライナが1991年に独立することを可能にしました。この文脈においてロシア革命後とウクライナ革命後のウクライナとロシアの間の国境線画定は現在のウクライナにおける国家の形態に大きな影響を及ぼしているといえるでしょう。1920年代、ソビエト連邦は強大で多数派のロシア人とその他の貧しい少数民族及びその最大規模の少数民族であったウクライナ人とで構成されていた民族問題をソビエト連邦における調和を保つために明確に定義する必要がありました。この民族問題への解決策がウクライナにおける啓蒙運動という結果になったウクライナ化政策でした。大衆教育、識字率向上施策、文学普及施策、言語の標準化という分野における深い国民文化の再生はウクライナ文化の基礎となり、それら国家によって支援された啓蒙運動としてのウクライナ化によって説明することができます。その一方で1930年代におけるウクライナ化の終焉はウクライナ人にロシア化を強いるものとなりました。

第三章は二度の大戦の結果としてのポーランド・ウクライナ国境線画定は今日の両国関係に影を落としている国境地方での民族浄化をもたらしたことを示しました。ウクライナのナショナリズムが存在しているところでポーランド人がウクライナ人を抑圧し、ナチスドイツとソビエト連邦による地元のエリート層の殺害はナチスドイツとウクライナ民族主義者によってユダヤ人が既に絶滅させられていたヴォルィーニ地方での民族浄化の引き金となりました。戦後ポーランドの共産主義政権はヴィスワ作戦として報復的措置をとり、民族的に均質なポーランドを歴史上初めて建設しました。ポーランド・ウクライナ国境地方での20世紀半ばの民族対立にもかかわらず、1990年代の両国の指導者はスターリンによって線引きが行われた現在の国境線を認めました。ポーランドの民主政権が共産主義政権によって行われたヴィスワ作戦を簡単に否定することができる一方で独立したウクライナはウクライナ民族主義者によって行われたヴォルィーニ大虐殺を簡単には否定できません。よって過去はそれぞれの国にとって異なって認識されています。1990年代、両国の政治指導者はそれぞれの国家形成を強化するために政治的和解を推進しました。しかし各々の国においてより教養のある指導者と大衆の間には隔たりがあります。指導者は困難な過去の重荷を将来にわたって向き合ってかなければなりませんが、彼らは過去からの教訓に学び、自国の発展と繁栄のために国家主義的な措置を控えました。明らかに両国が20世紀半ばに経験したことは現在の関係に悪影響を及ぼしています。政治家は大衆に過去が将来の妨げとならないように和解の重要性を納得させなければなりません。

第4章はクリミアの自治に関する長引いた交渉プロセスはウクライナの国家建設に良い影響を与えましたことを示しました。ウクライナ中央政府とクリミアのロシア人が対峙していたが、クリミアにおける主要な問題は中央政府と地方政府の間の対立であった状況下において、1990年代のクリミアは民族紛争を経験していたかもしれませんでした。貧窮した経済情勢とクリミアにおけるロシア人の民族主義からは距離を置いたロシアは中央と周辺の間における対立という枠組みにおいて重要な役割を果たしました。ウクライナの国家建設に対する一方での中央と周辺による権力闘争に直面して、クリミア自治の長引いた交渉は両者の関心を憲法制定へと留まらせてクリミアにおけるウクライナの主権を裏書きするという妥協を生み出したのです。よって、クリミア憲法の長引いた交渉は他の手段をもってする持続的な政策の継続であったのです。さらに、ロシアとのリース合意と条約はウクライナのクリミアおける主権に対する国際的な支持したことになり、この合意と条約は将来におけるロシアのクリミアに対する野心を排除することになったのです。ロシア人が人口の大多数を占めて帝政時代、ソビエト時代から1954年まで深いロシアの土地であったクリミア半島においてクリミア自治を念入りに作り上げることはウクライナの国家建設を強化したのです。クリミア自治はまた独立以来ウクライナの目印となる特徴である多様性を表しているのです。

第5章はEUと非EU加盟国であるウクライナとの間の新しい境界のEUがその規範的パワーと欧州化のパワーを謳歌している両者の関係への影響を詳細に調査しました。ウクライナがEUの規範を強要されることによるEUの強大な影響力はENPの枠組みにおけるコンディショナリティーの概念によって代表することができます。EUコンディショナリティーの性質はEUが政治、経済の分野でウクライナに優越しており、ウクライナはその発展のためにベストプラクティスとしてのEUの規範を認めてそれに順応するというウクライナとの非対称的名関係を明確に説明しました。よってEUの規範と標準に基づいたEUからの指示はウクライナの発展に重大な影響を与えます。一方でウクライナの発展の成果は当初にENPプログラムで計画されたものには追いついていません。EUの規範的パワーとウクライナに発展をもたらすはずであった欧州化のパワーはウクライナのケースにおいては制限されたものになるということを見てきました。のろのろとした発展に直面してウクライナはヨーロッパの標準に接近するために長い時間が必要となります。

成功しなかったウクライナ革命の結果として、ウクライナは20世紀のほとんどの時間をロシアと共有しています。ソビエト連邦の遺産はウクライナに良い点と悪い点の双方を与えています。1920年代にウクライナ化がウクライナにおける啓蒙運動をもたらした一方、1930年代以降の容赦ないロシア化はウクライナをロシア帝政時代の状態に戻してしまいました。もちろん、ウクライナ人が容赦ない20世紀におけるソビエト政策の犠牲者となったことは利益より不利益を多くウクライナにもたらしました。ウクライナの国家建設に関して特筆すべきことは現在のウクライナの国家形態は20世紀にウクライナ化とロシア化が発生したソビエトの政治体制の中で形成されたということです。既にクリミア自治の章で確認したように、ウクライナ中央政府と大多数がロシア人である地方政府の間の不一致は紛争になっていたかもしれませんでした。にもかかわらず、その不一致は発生しなかった紛争として帰結し、クリミア自治における両者の交渉はウクライナの国家建設を強化しました。よってこの論文でみてきた歴史によって、ウクライナはウクライナ人とロシア人の両方の性格、気質を包含する国家と結論づけることができるでしょう。不一致と多様性はウクライナの特筆すべき特徴であり、それは現在のウクライナ国家を識別するものなのです。中央政府と地方政府の不一致、西と東の不一致、ロシア人とウクライナ人の不一致などがあろうとも、それら不一致はウクライナの国家の主権下で揺れ動くことはきわめて自然なことなのです。もし多様性を受け入れない政治的に急進的なポジションに傾向しそうなときは正しいポジションに戻すことができる能力をウクライナは身につけるべきなのです。おそらく、ウクライナの多様性はすぐには結論をだすことはないでしょうが、政治的な振幅が民主主義によって動機づけられる限り、少なくとも国家の方向性におけるバランスを保つ助けになるでしょう。よって改革の停止と出発を繰り返す手法は長期的に見て持続的で安定したウクライナの発展に道を開き、急進的な傾向を回避するでしょう。

5章で論じたように、多くのヨーロッパ人は私たちが西側の価値観と呼ぶ欧州的標準、欧州的規範、欧州的価値観というものを信じています。ヨーロッパ人は自由、人権、マイノリティーの保護、民主主義、法の支配を彼らが経験したキリスト教の普及、啓蒙運動、フランス革命、資本主義と共産主義の勃興、冷戦の勃発と終焉というヨーロッパの歴史の結果として支持しています。これらの歴史的出来事の多くは西ヨーロッパ、すべてはヨーロッパで発生しました。欧州的な価値観が西側の発生源からウクライナのような末端まで普及するまでには時間差がありますが、明らかにウクライナ及び多くの東ローロッパの国家はこの歴史を共有しています。この文脈において、西ヨーロッパから東ヨーロッパまでひとつのことが普及するまでには時間がかかるという傾向をウクライナ国家の建設に適用することができます。多くのヨーロッパ人がおよそ100年以上前に経験した国民国家の建設を現在ウクライナが取り組んでいる一方で、ヨーロッパはひとつの政治機関へと統合しようとしているのです。歴史的にウクライナは西側の近隣諸国の100年以上遅れをとっており、常にそれらを追いかけて続けています。よって5章で議論した欧州化の流れはウクライナの歴史において再帰的なテーマであるように思えます。過去ウクライナはヨーロッパから影響を受け続けてきました。第2章と第3章でみてきたように、20世紀において国民国家とナショナリズムはウクライナに独立国家となることを動機づけました。西側からきた国民国家の考えは現在のウクライナの国家形成においては別の考えではありましたが、少なくともそれは独立ウクライナの構想にきっかけを与えたのです。20世紀におけるウクライナ国家の形成はヨーロパの影響下で始まり、21世紀においてもそれは欧州化の流れの中で続くのです。よってウクライナにとって欧州化は当然のこととなるものの、ウクライナのヨーロッパへ接近する速さはとても遅く時間がかかるでしょう。たとえウクライナの国家建設及びその発展がとても遅く、困難であっても、ウクライナがヨーロッパを選択し続ける限り、ウクライナの近隣諸国、特にEUは我慢強くウクライナを支援すべきなのです。ウクライナのヨーロッパへの傾向の現実性について、一部の高等教育をうけたウクライナ人と一般大衆の間ではどのように欧州化を捉えるかではギャップがあるかもしれません。ウクライナの指導者たちはEUへの接近を好んだ場合、一般の人々はその接近の利益が何なのかを納得していない場合があります。第3章と第5章では政府は欧州の機関に傾向したが、実態は何も追いついていなかったというギャップを確認しました。ギャップを埋めるには時間がかかるのでしょう。

ウクライナの人工的な国境線画定及びそれに伴う大量殺戮、強制移住、ソビエトの政策という結果はウクライナに近代的なナショナリズムの考えにまとまることを許しましした。その上で、この論文では合意形成における政治プロセス、政治的妥協、和解の努力、欧州化はウクライナの国家建設を強化することを強調してきました。この意味において、ナショナリズムと困難な過去はウクライナの国家建設を遅延させ、妨げる 要因となるかもしれません。ウクライナの国境線画定と民族浄化とロシア化というような結果は、20世紀のナショナリズムの考えに基いた、寛容と多様性を受け入れない単一民族によるウクライナではなく、長期的には多様性の中での団結を受容しなければならないウクライナを示唆しているのです。これはウクライナの宿命で、ウクライナ国家の建設における象徴的な特徴であるべきなのです。

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目次

はじめに 1.序論 2. ロシアとしてのソビエト連邦との歴史的関係 2.1 ウクライナ国家の形成とその余波 2.1.1中央ラーダとウニヴェルサール 2.1.2 ヘトマン 2.1.3内戦とディレクトーリヤ 2.2 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の成立...